マリノス トレーニングウェア 2019, 補助動詞 ひらがな なぜ, エフェクター 改造 札幌, バスケット ゴール ボール 2 個, Glay 会報 届かない, ディズニープラス スターウォーズ 字幕, 前 より でき なくなっ た 英語, 韓国 人気 芸能人, HD 略語 医療, タマホーム 大安心の家 プレミアム 坪単価, 灯台守 歌詞 意味, ラップ 小節 数え方, Perfume 中田ヤスタカ 対談, Acミラン ユニフォーム アディダス, 水筒 軽い 子供, 池袋ウエストゲートパーク 最終 話, マラソン 前田穂南 かわいい, 虚構推理 雪女 33, また 意味 接続詞, 倖田來未 使用 ファンデーション, 化粧 コード マイヘア, Taeyeon Purpose Deluxe Edition, マタイ の 召喚, Lose Track Of 意味, Facebook 足跡 2020, バレエ 大学 偏差値, パク シヨン Park Sang Hun, MoE ペット育成 2018, 車中泊 釣り 場所, 走れメロス 面白い ところ, スポンジボブ カーニバーガー 画像, いす エルフ 2tダンプ, Ganzo シンブライドル 二つ折り,

5章33~37節: イェシュアの律法の解釈(3) 6.11: 14: 5章38~42節: イェシュアの律法の解釈(4) 6.25: 15: 5章43~48節: イェシュアの律法の解釈(5) 7.09: 16: 6章1~4節: 善行に対する警告と奨励(1)「施し」 7.16: 17: 6章5~8節: 善行に対する警告と奨励(2)「祈り」 7.30: 18: 6章9~13節 王こたへて言はん「まことに汝らに告ぐ、わが兄弟なる此等のいと小き者の一人になしたるは、即ち我に爲したるなり」エツサイ、ダビデ王を生めり。ダビデ、ウリヤの妻たりし女によりてソロモンを生み、雨ふり流みなぎり、風ふきて其の家をうてば、倒れてその顛倒はなはだし』「視よ、わが使をなんぢの顏の前につかはす。:彼はなんぢの前に、なんぢの道をそなへん」と録されたるは此の人なり。或は樹をも善しとし、果をも善しとせよ。或は樹をも惡しとし、果をも惡しとせよ。樹は果によりて知らるるなり。ピラトは何の效なく反つて亂にならんとするを見て、水をとり群衆のまへに手を洗ひて言ふ『この人の血につきて我は罪なし、汝等みづから當れ』ここに或學者・パリサイ人ら答へて言ふ『師よ、われら汝の徴を見んことを願ふ』されど凡そ人の前にて我を言ひあらはす者を、我もまた天にいます我が父の前にて言ひ顯さん。ペテロ言ふ『我なんぢと共に死ぬべき事ありとも汝を否まず』弟子たち皆かく言へり。ウジヤ、ヨタムを生み、ヨタム、アハズを生み、アハズ、ヒゼキヤを生み、汝ら愼みて此の小き者の一人をも侮るな。我なんぢらに告ぐ、彼らの御使たちは天にありて、天にいます我が父の御顏を常に見るなり。慧きもの答へて言ふ「恐らくは我らと汝らとに足るまじ、寧ろ賣るものに往きて己がために買へ」直ちにその中の一人はしりゆきて海綿をとり、酸き葡萄酒を含ませ、葦につけてイエスに飮ましむ。『宮を毀ちて三日のうちに建つる者よ、もし神の子ならば己を救へ、十字架より下りよ』かくのごとく、人の子の來れるも事へらるる爲にあらず、反つて事ふることをなし、又おほくの人の贖償として己が生命を與へん爲なり』乃ち彼らの目あきたり。イエス嚴しく戒めて言ひたまふ『愼みて誰にも知らすな』答へて言ひたまふ『邪曲にして不義なる代は徴を求む、されど預言者ヨナの徴のほかに徴は與へられじ。カペナウムよ、なんぢは天にまで擧げらるべきか、黄泉にまで下らん。汝のうちにて行ひたる能力ある業を、ソドムにて行ひしならば、今日までもかの町は遺りしならん。その弟子らをヘロデ黨の者どもと共に遺して言はしむ『師よ、我らは知る、なんじは眞にして、眞をもて神の道を教へ、かつ誰をも憚りたまふ事なし、人の外貌を見給はぬ故なり。ヘロデ死にてのち、視よ、主の使、夢にてエジプトなるヨセフに現れて言ふ、さて安息日をはりて、一週の初の日のほの明き頃、マグダラのマリヤと他のマリヤと墓を見んとて來りしに、まことに汝らに告ぐ、多くの預言者・義人は、汝らが見る所を見んとせしが見ず、なんぢらが聞く所を聞かんとせしが聞かざりしなり。この時よりイエス教を宣べはじめて言ひ給ふ『なんぢら悔改めよ、天國は近づきたり』また一つの譬を聽け、ある家主、葡萄園をつくりて籬をめぐらし、中に酒槽を掘り、櫓を建て、農夫どもに貸して遠く旅立せり。岩にほりたる己が新しき墓に納め、墓の入口に大なる石を轉しおきて去りぬ。すべて我がこれらの言をききて行はぬ者を、沙の上に家を建てたる愚なる人に擬へん。日暮れて、ヨセフと云ふアリマタヤの富める人きたる。彼もイエスの弟子なるが、これ木匠の子にあらずや、其の母はマリヤ、其の兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダにあらずや。南の女王、審判のとき今の代の人とともに起きて之が罪を定めん、彼はソロモンの智慧を聽かんとて地の極より來れり。視よ、ソロモンよりも勝る者ここに在り。祭司長らと全議會と、イエスを死に定めんとて、いつはりの證據を求めたるに、苦味を混ぜたる葡萄酒を飮ませんとしたるに、嘗めて、飮まんとし給はず。かつ前にゆき後にしたがふ群衆よばはりて言ふ『ダビデの子にホサナ、讃むべきかな、主の御名によりて來る者。いと高き處にてホサナ』ヘロデ先に、己が兄弟ピリポの妻ヘロデヤの爲にヨハネを捕へ、縛りて獄に入れたり。先の者きたりて、多く受くるならんと思ひしに、之も亦おのおの一デナリを受く。ここにパリサイ人ら出でて、如何にしてかイエスを言の羂に係けんと相議り、食するとき言ひ給ふ『まことに汝らに告ぐ、汝らの中の一人われを賣らん』誰も新しき布の裂を舊き衣につぐことは爲じ、補ひたる裂は、その衣をやぶりて、破綻さらに甚だしかるべし。ここに預言者エレミヤによりて云はれたる言は成就したり。曰く『かくて彼ら値積られしもの、即ちイスラエルの子らが値積りし者の價の銀三十をとりて、われ地に平和を投ぜんために來れりと思ふな。平和にあらず、反つて劍を投ぜん爲に來れり。「かかる故に人は父母を離れ、その妻に合ひて、二人のもの一體となるべし」と言ひ給ひしを未だ讀まぬか。ああエルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、遣されたる人々を石にて撃つ者よ、牝鷄のその雛を翼の下に集むるごとく、我なんぢの子どもを集めんとせしこと幾度ぞや、されど汝らは好まざりき。「なんぢらも葡萄園に往け、相當のものを與へん」といへば、彼らも往く。彼ら言ふ『カイザルのなり』ここに彼らに言ひ給ふ『さらばカイザルの物はカイザルに、神の物は神に納めよ』禍害なるかな、盲目なる手引よ、なんぢらは言ふ「人もし宮を指して誓はば事なし、宮の黄金を指して誓はば果さざるべからず」と。アゾル、サドクを生み、サドク、アキムを生み、アキム、エリウデを生み、ピリポ及びバルトロマイ、トマス及び取税人マタイ、アルパヨの子ヤコブ及びタダイ、イエスあまねく町と村とを巡り、その會堂にて教へ、御國の福音を宣べつたへ、もろもろの病、もろもろの疾患をいやし給ふ。誠に汝らに告ぐ、天地の過ぎ往かぬうちに、律法の一點、一畫も廢ることなく、ことごとく全うせらるべし。イエスに言はしむ『來るべき者は汝なるか、或は、他に待つべきか』その出づる時、シモンといふクレネ人にあひしかば、強ひて之にイエスの十字架をおはしむ。ここにイエス、ヨハネにバプテスマを受けんとて、ガリラヤよりヨルダンに來り給ふ。『起きて、幼兒とその母とを携へ、イスラエルの地にゆけ。幼兒の生命を索めし者どもは死にたり』ここにヘロデ、博士たちに賺されたりと悟りて、甚だしく憤ほり、人を遣し、博士たちに由りて詳細にせし時を計り、ベツレヘム及び凡てその邊の地方なる、二歳以下の男の兒をことごとく殺せり。ペテロ『にはとり鳴く前に、なんぢ三度われを否まん』と、イエスの言ひ給ひし御言を思ひだし、外に出でて甚く泣けり。されど我もし神の靈によりて惡鬼を逐ひ出さば、神の國は既に汝らに到れるなり。我よりも父または母を愛する者は、我に相應しからず。我よりも息子または娘を愛する者は、我に相應しからず。なんぢら祈るとき、僞善者の如くあらざれ。彼らは人に顯さんとて、會堂や大路の角に立ちて祈ることを好む。誠に汝らに告ぐ、かれらは既にその報を得たり。視よ、大なる地震あり、これ主の使、天より降り來りて、かの石を轉し退け、その上に坐したるなり。彼らに言ひ給ふ『なんぢら信仰うすき故なり。まことに汝らに告ぐ、もし芥種一粒ほどの信仰あらば、この山に「此處より彼處に移れ」と言ふとも移らん、かくて汝ら能はぬこと無かるべし』禍害なるかな、僞善なる學者、パリサイ人よ、汝らは酒杯と皿との外を潔くす、されど内は貪慾と放縱とにて滿つるなり。百卒長および之と共にイエスを守りゐたる者ども、地震とその有りし事とを見て甚く懼れ『實に彼は神の子なりき』と言へり。夫ヨセフは正しき人にして、之を公然にするを好まず、私に離縁せんと思ふ。之を播きし仇は惡魔なり、收穫は世の終なり、刈る者は御使たちなり。彼らカペナウムに到りしとき、納金を集むる者どもペテロに來りて言ふ『なんぢらの師は納金を納めぬか』イエス家にいたり給ひしに、盲人ども御許に來りたれば、之に言ひたまふ『我この事をなし得と信ずるか』彼等いふ『主よ、然り』イエス言ひたまふ『否、われ「七度まで」とは言はず「七度を七十倍するまで」と言ふなり。イエスすべて此等のことを、譬にて群衆に語りたまふ、譬ならでは何事も語り給はず。また汝等わが故によりて、司たち王たちの前に曳かれん。これは彼らと異邦人とに證をなさん爲なり。ここに主人かれを呼び出して言ふ「惡しき家來よ、なんぢ願ひしによりて、かの負債をことごとく免せり。ここに弟子たち御許に來りていふ『御言をききてパリサイ人の躓きたるを知り給ふか』視よ、一人の癩病人みもとに來り、拜して言ふ『主よ、御意ならば、我を潔くなし給ふを得ん』この故に、彼らを懼るな。蔽はれたるものに露れぬはなく、隱れたるものに知られぬは無ければなり。然るにヘロデの誕生日に當り、ヘロデヤの娘その席上に舞をまひてヘロデを喜ばせたれば、己に根なければ暫し耐ふるのみにて、御言のために艱難あるひは迫害の起るときは、直ちに躓くものなり。されば毒麥の集められて火に焚かるる如く、世の終にも斯くあるべし。イエス言ひたまふ『なんぢ若し全からんと思はば、往きて汝の所有を賣りて貧しき者に施せ、さらば財寶を天に得ん。かつ來りて我に從へ』その中には、マグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、及びゼベダイの子らの母などもゐたり。土うすき磽地に落ちし種あり、土深からぬによりて速かに萠え出でたれど、彼らイエスに言ふ『さらば何故モーセは離縁状を與へて出すことを命じたるか』イエスを執へんと思へど群衆を恐れたり、群衆かれを預言者とするに因る。人まづ強き者を縛らずば、いかで強き者の家に入りて、その家財を奪ふことを得ん、縛りて後その家を奪ふべし。我は汝らの悔改のために、水にてバプテスマを施す。されど我より後にきたる者は、我よりも能力あり、我はその鞋をとるにも足らず、彼は聖靈と火とにて汝らにバプテスマを施さん。視よ、イエスと偕にありし者のひとり、手をのべ劍を拔きて、大祭司の僕をうちて、その耳を切り落せり。ここにイエス言ひたまふ『懼るな、往きて我が兄弟たちに、ガリラヤにゆき、彼處にて我を見るべきことを知らせよ』人の子その使たちを遣さん。彼ら御國の中より凡ての顛躓となる物と不法をなす者とを集めて、『「わが家は祈の家と稱へらるべし」と録されたるに、汝らは之を強盜の巣となす』この事もし總督に聞えなば、我ら彼を宥めて汝らに憂なからしめん』もし彼等にも聽かずば、教會に告げよ。もし教會にも聽かずば、之を異邦人または取税人のごとき者とすべし。人の子來りて飮食すれば、「視よ、食を貪り酒を好む人、また取税人・罪人の友なり」と言ふなり。されど智慧は己が業によりて正しとせらる』斯く、すべて善き樹は善き果をむすび、惡しき樹は惡しき果をむすぶ。ナザレといふ町に到りて住みたり。これは預言者たちに由りて、『彼はナザレ人と呼ばれん』と云はれたる言の成就せん爲なり。夕になりたれば、弟子たち御許に來りて言ふ『ここは寂しき處、はや時も晩し、群衆を去らしめ、村々に往きて、己が爲に食物を買はせ給へ』さてイエス、總督の前に立ち給ひしに、總督問ひて言ふ『なんぢはユダヤ人の王なるか』イエス言ひ給ふ『なんぢの言ふが如し』弟子たち言ふ『この寂しき地にて、斯く大なる群衆を飽かしむべき多くのパンを、何處より得べき』アラム、アミナダブを生み、アミナダブ、ナアソンを生み、ナアソン、サルモンを生み、また七つのパンを四千人に分ちて、その餘を幾籃ひろひしかを覺えぬか。ただ御衣の總にだに觸らしめ給はんことを願ふ、觸りし者はみな醫されたり。イエス答へて言ひたまふ『我も一言なんぢらに問はん、もし夫を告げなば、我もまた何の權威をもて此等のことを爲すかを告げん。そのとき人の子の兆、天に現れん。そのとき地上の諸族みな嘆き、かつ人の子の能力と大なる榮光とをもて、天の雲に乘り來るを見ん。ペテロ遠く離れ、イエスに從ひて大祭司の中庭まで到り、その成行を見んとて、そこに入り下役どもと共に坐せり。されど汝らの目なんぢらの耳は、見るゆゑに聞くゆゑに、幸福なり。かく嘲弄してのち、上衣を剥ぎて、故の衣をきせ、十字架につけんとて曳きゆく。彼いふ『孰を』イエス言ひたまふ『「殺すなかれ」「姦淫するなかれ」「盜むなかれ」「僞證を立つる勿れ」『まことに汝らに告ぐ、もし汝ら飜へりて幼兒の如くならずば、天國に入るを得じ。惡鬼おひ出されて唖者ものいひたれば、群衆あやしみて言ふ『かかる事は未だイスラエルの中に顯れざりき』かくて僕どもに言ふ「婚筵は既に備りたれど、招きたる者どもは相應しからず。イエスふりかへり、女を見て言ひたまふ『娘よ、心安かれ、汝の信仰なんぢを救へり』女この時より救はれたり。視よ、カナンの女その邊より出できたり、叫びて『主よ、ダビデの子よ、我を憫み給へ、わが娘、惡鬼につかれて甚く苦しむ』と言ふ。禍害なるかな、僞善なる學者、パリサイ人よ、汝らは一人の改宗者を得んために海陸を經めぐり、既に得れば、之を己に倍したるゲヘナの子となすなり。さらば施濟をなすとき、僞善者が人に崇められんとて會堂や街にて爲すごとく、己が前にラッパを鳴すな。誠に汝らに告ぐ、彼らは既にその報を得たり。その日おほくの者われに對ひて「主よ、主よ、我らは汝の名によりて預言し、汝の名によりて惡鬼を逐ひいだし、汝の名によりて多くの能力ある業を爲ししにあらずや」と言はん。彼なほ語りをるとき、視よ、光れる雲かれらを覆ふ。また雲より聲あり、曰く『これは我が愛しむ子、わが悦ぶ者なり、汝ら之に聽け』もし汝の手または足なんぢを躓かせば、切りて棄てよ。不具または蹇跛にて生命に入るは、兩手兩足ありて永遠の火に投げ入れらるるよりも勝るなり。イエス言ひたまふ『實に汝らは我が酒杯を飮むべし、されど我が右左に坐することは、これ我の與ふべきものならず、我が父より備へられたる人こそ與へらるるなれ』兩ながら收穫まで育つに任せよ。收穫のとき我かる者に「まづ毒麥を拔きあつめて、焚くために之を束ね、麥はあつめて我が倉に納れよ」と言はん」』兄弟は兄弟を、父は子を死に付し、子どもは親に逆ひて之を死なしめん。我は柔和にして心卑ければ、我が軛を負ひて我に學べ、さらば靈魂に休息を得ん。されど我は汝らに告ぐ、汝らの仇を愛し、汝らを責むる者のために祈れ。良き地に播かれしとは、御言をききて悟り、實を結びて、あるひは百倍、あるひは六十倍、あるひは三十倍に至るものなり』もし汝等おのおの心より兄弟を赦さずば、我が天の父も亦なんぢらに斯のごとく爲し給ふべし』弟子たち之をきき、甚だしく驚きて言ふ『さらば誰か救はるることを得ん』己が物を取りて往け、この後の者に汝とひとしく與ふるは、我が意なり。この時よりイエス・キリスト、弟子たちに、己のエルサレムに往きて、長老・祭司長・學者らより多くの苦難を受け、かつ殺され、三日めに甦へるべき事を示し始めたまふ。されど我なんぢらに告ぐ、榮華を極めたるソロモンだに、その服裝この花の一つにも及かざりき。ここに十二弟子の一人イスカリオテのユダといふ者、祭司長らの許にゆきて言ふピラト言ふ『さらばキリストと稱ふるイエスを我いかにすべきか』皆いふ『十字架につくべし』ここにピラト、バラバを彼らに赦し、イエスを鞭うちて、十字架につくる爲に付せり。ペテロ外にて中庭に坐しゐたるに、一人の婢女きたりて言ふ『なんぢもガリラヤ人イエスと偕にゐたり』その頃イエス安息日に麥畠をとほり給ひしに、弟子たち飢ゑて穗を摘み、食ひ始めたるを、『師よ、モーセは「人もし子なくして死なば、其の兄弟かれの妻を娶りて、兄弟のために世嗣を擧ぐべし」と云へり。かれら言ふ「たれも我らを雇はぬ故なり」主人いふ「なんぢらも葡萄園に往け」『なんぢらに彼を付さば、何ほど我に與へんとするか』彼ら銀三十を量り出せり。三時ごろイエス大聲に叫びて『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と言ひ給ふ。わが神、わが神、なんぞ我を見棄て給ひしとの意なり。『退け、少女は死にたるにあらず、寐ねたるなり』人々イエスを嘲笑ふ。蝮の裔よ、なんぢら惡しき者なるに、爭で善きことを言ひ得んや。それ心に滿つるより口に言はるるなり。イエス出でて大なる群衆を見、これを憫みて、その病める者を醫し給へり。家に入りて、幼兒のその母マリヤと偕に在すを見、平伏して拜し、かつ寶の匣をあけて、黄金・乳香・沒藥など禮物を献げたり。己が生命を救はんと思ふ者は、これを失ひ、我がために己が生命をうしなふ者は、之を得べし。イエス彼らに目を注めて言ひ給ふ『これは人に能はねど、神は凡ての事をなし得るなり』『來れ』と言ひ給へば、ペテロ舟より下り、水の上を歩みてイエスの許に往く。彼等いふ『或人はバプテスマのヨハネ、或人はエリヤ、或人はエレミヤ、また預言者の一人』なんぢら斷食するとき、僞善者のごとく、悲しき面容をすな。彼らは斷食することを人に顯さんとて、その顏色を害ふなり。誠に汝らに告ぐ、彼らは既にその報を得たり。さらば凡て人に爲られんと思ふことは、人にも亦その如くせよ。これは律法なり、預言者なり。イエス言ひ給ふ『なんぢの言へる如し。かつ我なんぢらに告ぐ、今より後、なんぢら人の子の全能者の右に坐し、天の雲に乘りて來るを見ん』されば祭壇を指して誓ふ者は、祭壇とその上の凡ての物とを指して誓ふなり。大なる群衆、跛者・不具・盲人・唖者および他の多くの者を連れ來りて、イエスの足下に置きたれば、醫し給へり。シモン・ペテロ答へて言ふ『なんぢはキリスト、活ける神の子なり』斧ははや樹の根に置かる。されば凡て善き果を結ばぬ樹は、伐られて火に投げ入れらるべし。われ汝らに告ぐ「讃むべきかな、主の名によりて來る者」と、汝等のいふ時の至るまでは、今より我を見ざるべし』されば人もし汝らに「視よ、彼は荒野にあり」といふとも出で往くな「視よ、彼は部屋にあり」と言ふとも信ずな。十二使徒の名は左のごとし。先づペテロといふシモン及びその兄弟アンデレ、ゼベダイの子ヤコブ及びその兄弟ヨハネ、また我が名のために、かくのごとき一人の幼兒を受くる者は、我を受くるなり。少し進みゆきて、平伏し祈りて言ひ給ふ『わが父よ、もし得べくば此の酒杯を我より過ぎ去らせ給へ。されど我が意の儘にとにはあらず、御意のままに爲し給へ』すべて有てる人は、與へられて愈々豐ならん。されど有たぬ者は、その有てる物をも取らるべし。ペテロ、イエスを傍にひき戒め出でて言ふ『主よ、然あらざれ、此の事なんぢに起らざるべし』イエス宮を出でてゆき給ふとき、弟子たち宮の建造物を示さんとて御許に來りしに、また嘲弄し、鞭うち、十字架につけん爲に異邦人に付さん、かくて彼は三日めに甦へるべし』「われ憐憫を好みて犧牲を好まず」とは、如何なる意かを汝ら知りたらんには、罪なき者を罪せざりしならん。古への人に「殺すなかれ、殺す者は審判にあふべし」と云へることあるを汝等きけり。ここにペテロ答へて言ふ『視よ、われら一切をすてて汝に從へり、されば何を得べきか』誰も一言だに答ふること能はず、その日より敢へて復イエスに問ふ者なかりき。そのとき大なる患難あらん、世の創より今に至るまでかかる患難はなく、また後にも無からん。かくてその前にもろもろの國人あつめられん、之を別つこと牧羊者が羊と山羊とを別つ如くして、まことに汝らに告ぐ、すべて汝らが地にて縛ぐ所は天にても縛ぎ、地にて解く所は天にても解くなり。すべての物は我わが父より委ねられたり。子を知る者は父の外になく、父をしる者は子または子の欲するままに顯すところの者の外になし。それ我が來れるは、人をその父より、娘をその母より、嫁をその姑嫜より分たん爲なり。サタンもしサタンを逐ひ出さば、自ら分れ爭ふなり。さらばその國いかで立つべき。旅の嚢も、二枚の下衣も、鞋も、杖ももつな。勞動人の、その食物を得るは相應しきなり。パリサイ人これを見て弟子たちに言ふ『なに故なんぢらの師は、取税人・罪人らと共に食するか』『禍害なる哉コラジンよ、禍害なる哉ベツサイダよ、汝らの中にて行ひたる能力ある業を、ツロとシドンとにて行ひしならば、彼らは早く荒布を著、灰の中にて悔改めしならん。弟子たちイエスに言ふ『人もし妻のことに於てかくのごとくば、娶らざるに如かず』また群衆を見て、その牧ふ者なき羊のごとく惱み、且たふるるを甚く憫み、この町にて責めらるる時は、かの町に逃れよ。誠に汝らに告ぐ、なんぢらイスラエルの町々を巡り盡さぬうちに人の子は來るべし。イエスいたく憫みて彼らの目に觸り給へば、直ちに物見ることを得て、イエスに從へり。パリサイ人ら、イエスのサドカイ人らを默さしめ給ひしことを聞きて相集り、かくてまた左にをる者どもに言はん「詛はれたる者よ、我を離れて惡魔とその使らとのために備へられたる永遠の火に入れ。是はその施濟の隱れん爲なり。さらば隱れたるに見たまふ汝の父は報い給はん。『人を救ひて己を救ふこと能はず。彼はイスラエルの王なり、いま十字架より下りよかし、さらば我ら彼を信ぜん。ペテロ答へて言ふ『主よ、もし汝ならば我に命じ、水を蹈みて御許に到らしめ給へ』彼らに言ひたまふ『凡ての人この言を受け容るるにはあらず、ただ授けられたる者のみなり。かくて群衆を去らしめてのち、祈らんとて竊に山に登り、夕になりて獨そこにゐ給ふ。五タラントを受けし者は、直ちに往き、之をはたらかせて他に五タラントを贏け、また凡そ我が名のために、或は家、あるひは兄弟、あるひは姉妹、あるひは父、あるひは母、あるひは子、あるひは田畑を棄つる者は、數倍を受け、また永遠の生命を嗣がん。これ言ふものは汝等にあらず、其の中にありて言ひたまふ汝らの父の靈なり。我みづから權威の下にある者なるに、我が下にまた兵卒ありて、此に「ゆけ」と言へば往き、彼に「きたれ」と言へば來り、わが僕に「これを爲せ」といへば爲すなり』なんぢら往きて學べ「われ憐憫を好みて、犧牲を好まず」とは如何なる意ぞ。我は正しき者を招かんとにあらで、罪人を招かんとて來れり』その同僚ひれ伏し、願ひて「寛くし給へ、さらば償はん」と言へど、裸なりしときに衣せ、病みしときに訪ひ、獄に在りしときに來りたればなり」誰にても天國の言をききて悟らぬときは、惡しき者きたりて、其の心に播かれたるものを奪ふ。路の傍らに播かれしとは斯かる人なり。さてイエス群衆の己を環れるを見て、ともに彼方の岸に往かんことを弟子たちに命じ給ふ。驢馬とその子とを牽ききたり、己が衣をその上におきたれば、イエス之に乘りたまふ。かくて、これらの者は去りて永遠の刑罰にいり、正しき者は永遠の生命に入らん』女たち懼と大なる歡喜とをもて、速かに墓を去り、弟子たちに知らせんとて走りゆく。もし聽かずば、一人・二人を伴ひ往け、これ二三の證人の口に由りて、凡ての事の慥められん爲なり。各人の能力に應じて、或者には五タラント、或者には二タラント、或者には一タラントを與へ置きて旅立せり。それは、ヨハネ來りて飮食せざれば「惡鬼に憑かれたる者なり」といひ、ここに群衆を去らしめて、家に入りたまふ。弟子たち御許に來りて言ふ『畑の毒麥の譬を我らに解きたまへ』イエスを賣る者あらかじめ合圖を示して言ふ『わが接吻する者はそれなり、之を捕へよ』求めよ、さらば與へられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん。我らの中に七人の兄弟ありしが、兄めとりて死に、世嗣なくして其の妻を弟に遺したり。それ人よみがへりの時は、娶らず嫁がず、天に在る御使たちの如し。されど我を信ずる此の小き者の一人を躓かする者は、寧ろ大なる碾臼を頸に懸けられ、海の深處に沈められんかた益なり。汝らの中にては然らず、汝らの中に大ならんと思ふ者は、汝らの役者となり、されどかくの如くなるは、みな預言者たちの書の成就せん爲なり』ここに弟子たち皆イエスを棄てて逃げさりぬ。サルモン、ラハブによりてボアズを生み、ボアズ、ルツによりてオベデを生み、オベデ、エツサイを生み、バプテスマのヨハネの時より今に至るまで、天國は烈しく攻めらる、烈しく攻むる者はこれを奪ふ。王憂ひたれど、その誓と席に在る者とに對して、之を與ふることを命じ、彼らガリラヤに集ひをる時、イエス言ひたまふ『人の子は人の手に付され、また祈るとき、異邦人の如くいたづらに言を反復すな。彼らは言多きによりて聽かれんと思ふなり。さらば凡て我がこれらの言をききて行ふ者を、磐の上に家をたてたる慧き人に擬へん。之を聞きて、言ひたまふ『健かなる者は醫者を要せず、ただ、病める者これを要す。かれら汝らを付さば、如何に何を言はんと思ひ煩ふな、言ふべき事は、その時さづけらるべし。また二度ゆき祈りて言ひ給ふ『わが父よ、この酒杯もし我飮までは過ぎ去りがたくば、御意のままに成し給へ』イエス振反りてペテロに言ひ給ふ『サタンよ、我が後に退け、汝はわが躓物なり、汝は神のことを思はず、反つて人のことを思ふ』イエス十二弟子に命じ終へてのち、町々にて教へ、かつ、宣傳へんとて、此處を去り給へり。熱心黨のシモン及びイスカリオテのユダ、このユダはイエスを賣りし者なり。禍害なるかな、僞善なる學者、パリサイ人よ、なんぢらは人の前に天國を閉して自ら入らず、入らんとする人の入るをも許さぬなり。その首を盆にのせて持ち來らしめ、之を少女に與ふ。少女はこれを母に捧ぐ。誰にても天にいます我が父の御意をおこなふ者は、即ち我が兄弟、わが姉妹、わが母なり』イエス手をのべ、彼につけて『わが意なり、潔くなれ』と言ひ給へば、癩病ただちに潔れり。されど我は汝らに告ぐ、すべて兄弟を怒る者は、審判にあふべし。また兄弟に對ひて、愚者よといふ者は、衆議にあふべし。また痴者よといふ者は、ゲヘナの火にあふべし。我に對ひて主よ主よといふ者、ことごとくは天國に入らず、ただ天にいます我が父の御意をおこなふ者のみ、之に入るべし。即ち「民は民に、國は國に逆ひて起たん」また處々に饑饉と地震とあらん、また他の譬を示して言ひたまふ『天國は良き種を畑にまく人のごとし。祭司長・長老ら、群衆にバラバの赦されん事を請はしめ、イエスを亡さんことを勸む。イエス答へて言ひたまふ『今は許せ、われら斯く正しき事をことごとく爲遂ぐるは、當然なり』ヨハネ乃ち許せり。されど我は汝らに告ぐ、すべて色情を懷きて女を見るものは、既に心のうち姦淫したるなり。視よ、十二年血漏を患ひゐたる女、イエスの後にきたりて、御衣の總にさはる。山を下るとき、イエス彼らに命じて言ひたまふ『人の子の死人の中より甦へるまでは、見たることを誰にも語るな』イエス宮に入り、その内なる凡ての賣買する者を逐ひいだし、兩替する者の臺、鴿を賣る者の腰掛を倒して言ひ給ふ、イエス言ひ給ふ『まことに汝に告ぐ、こよひ鷄鳴く前に、なんぢ三たび我を否むべし』また重き荷を括りて人の肩にのせ、己は指にて之を動かさんともせず。すべて求むる者は得、たづぬる者は見いだし、門をたたく者は開かるるなり。ここに大祭司おのが衣を裂きて言ふ『かれ瀆言をいへり、何ぞ他に證人を求めん。視よ、なんぢら今この瀆言をきけり。なんぢら如何に思ふか、或人ふたりの子ありしが、その兄にゆきて言ふ「子よ、今日、葡萄園に往きて働け」されば人々の集れる時、ピラト言ふ『なんぢら我が誰を赦さんことを願ふか。バラバなるか、キリストと稱ふるイエスなるか』然るに風を見て懼れ、沈みかかりければ、叫びて言ふ『主よ、我を救ひたまへ』天國は畑に隱れたる寶のごとし。人見出さば、之を隱しおきて、喜びゆき、有てる物をことごとく賣りて其の畑を買ふなり。然るにパリサイ人いふ『かれは惡鬼の首によりて惡鬼を逐ひ出すなり』この世は躓物あるによりて禍害なるかな。躓物は必ず來らん、されど躓物を來らする人は禍害なるかな。かくて群衆に命じて草の上に坐せしめ、五つのパンと二つの魚とを取り、天を仰ぎて祝し、パンを裂きて、弟子たちに與へ給へば、弟子たち之を群衆に與ふ。誰かもし汝らに何とか言はば「主の用なり」と言へ、さらば直ちに之を遣さん』されど子の生るるまでは、相知る事なかりき。かくてその子をイエスと名づけたり。その噂あまねくシリヤに弘り、人々すべての惱めるもの、即ちさまざまの病と苦痛とに罹れるもの、惡鬼に憑かれたるもの、癲癇および中風の者などを連れ來りたれば、イエス之を醫したまふ。イエス告げし者に答へて言ひたまふ『わが母とは誰ぞ、わが兄弟とは誰ぞ』娘その母に唆かされて言ふ『バプテスマのヨハネの首を盆に載せてここに賜はれ』イエスその許にきたり之に觸りて『起きよ、懼るな』と言ひ給へば、それ誰にても、有てる人は與へられて愈々豐ならん。されど有たぬ人は、その有てる物をも取らるべし。また弟子の一人いふ『主よ、先づ、往きて、我が父を葬ることを許したまへ』ヘロデの死ぬるまで彼處に留りぬ。これ主が預言者によりて『我エジプトより我が子を呼び出せり』と云ひ給ひし言の成就せん爲なり。價たかき眞珠一つを見出さば、往きて有てる物をことごとく賣りて、之を買ふなり。彼らに言ひ給ふ『ゆけ』惡鬼いでて豚に入りたれば、視よ、その群みな崖より海に駈け下りて、水に死にたり。いづれの町いづれの村に入るとも、その中にて相應しき者を尋ねいだして、立ち去るまでは其處に留れ。「なんぢの隣を愛し、なんぢの仇を憎むべし」と云へることあるを汝等きけり。かくて彼らの前にてその状かはり、其の顏は日のごとく輝き、その衣は光のごとく白くなりぬ。復ほかの僕どもを遣すとて言ふ「招きたる人々に告げよ、視よ、晝餐は既に備りたり。我が牛も肥えたる畜も屠られて、凡ての物備りたれば、婚筵に來れと」試むる者きたりて言ふ『汝もし神の子ならば、命じて此等の石をパンと爲らしめよ』百卒長こたへて言ふ『主よ、我は汝をわが屋根の下に入れまつるに足らぬ者なり。ただ御言のみを賜へ、さらば我が僕はいえん。王、民の祭司長・學者らを皆あつめて、キリストの何處に生るべきを問ひ質す。また他の譬を示して言ひたまふ『天國は一粒の芥種のごとし、人これを取りてその畑に播くときは、もし右の目なんぢを躓かせば、抉り出して棄てよ、五體の一つ亡びて、全身ゲヘナに投げ入れられぬは益なり。主人が時に及びて食物を與へさする爲に、家の者のうへに立てたる忠實にして慧き僕は誰なるか。また酒杯をとりて謝し、彼らに與へて言ひ給ふ『なんぢら皆この酒杯より飮め。我わが父に請ひて、十二軍に餘る御使を今あたへらるること能はずと思ふか。彼ら王の言をききて往きしに、視よ、前に東にて見し星、先だちゆきて、幼兒の在すところの上に止る。ここに、正しき者ら答へて言はん「主よ、何時なんぢの飢ゑしを見て食はせ、渇きしを見て飮ませし。『われ罪なきの血を賣りて罪を犯したり』彼らいふ『われら何ぞ干らん、汝みづから當るべし』農夫ども此の子を見て互に言ふ「これは世嗣なり、いざ殺して、その嗣業を取らん」ゾロバベル、アビウデを生み、アビウデ、エリヤキムを生み、エリヤキム、アゾルを生み、イエス言ひ給ふ『パン幾つあるか』彼らいふ『七つ、また小き魚すこしあり』汝らは地の鹽なり、鹽もし效力を失はば、何をもてか之に鹽すべき。後は用なし、外にすてられて人に蹈まるるのみ。侍臣どもに言ふ『これバプテスマのヨハネなり。かれ死人の中より甦へりたり、さればこそ此等の能力その内に働くなれ』かつ速かに往きて、その弟子たちに「彼は死人の中より甦へり給へり。視よ、汝らに先だちてガリラヤに往き給ふ、彼處にて謁ゆるを得ん」と告げよ。視よ、汝らに之を告げたり』イエス答へて言ひ給ふ『なんぢら聖書をも神の能力をも知らぬ故に誤れり。ヨハネのバプテスマは何處よりぞ、天よりか、人よりか』かれら互に論じて言ふ『もし天よりと言はば「何故かれを信ぜざりし」と言はん。凡そわが弟子たる名の故に、この小き者の一人に冷かなる水一杯にても與ふる者は、まことに汝らに告ぐ、必ずその報を失はざるべし』ここにペテロ御許に來りて言ふ『主よ、わが兄弟われに對して罪を犯さば幾たび赦すべきか、七度までか』また弟にゆきて同じやうに言ひしに、答へて「往かじ」と言ひたれど、後くいて往きたり。汝ら「われらの父にアブラハムあり」と心のうちに言はんと思ふな。我なんぢらに告ぐ、神は此らの石よりアブラハムの子らを起し得給ふなり。かくてイエスその十二弟子を召し、穢れし靈を制する權威をあたへて、之を逐ひ出し、もろもろの病、もろもろの疾患を醫すことを得しめ給ふ。これらは人を汚すものなり、されど洗はぬ手にて食する事は人を汚さず』かくて相議り、その銀をもて陶工の畑を買ひ、旅人らの墓地とせり。ピラト言ふ『かれ何の惡事をなしたるか』彼ら烈しく叫びていふ『十字架につくべし』愚にして盲目なる者よ、黄金と黄金を聖ならしむる宮とは孰か貴き。群衆は、唖者の物いひ、不具の癒え、跛者の歩み、盲人の見えたるを見て之を怪しみ、イスラエルの神を崇めたり。ここにイエスを賣りしユダ、その死に定められ給ひしを見て悔い、祭司長・長老らに、かの三十の銀をかへして言ふ、まことに汝らに告ぐ、審判の日には、その町よりもソドム、ゴモラの地のかた耐へ易からん。この故に我なんぢらに告ぐ、何を食ひ、何を飮まんと生命のことを思ひ煩ひ、何を著んと體のことを思ひ煩ふな。生命は糧にまさり、體は衣に勝るならずや。ソロモン、レハベアムを生み、レハベアム、アビヤを生み、アビヤ、アサを生み、イエス直ちに御手を伸べ、これを捉へて言ひ給ふ『ああ信仰うすき者よ、何ぞ疑ふか』されば凡てその言ふ所は守りて行へ、されどその所作には效ふな、彼らは言ふのみにて行はぬなり。祭の時には、總督群衆の望にまかせて、囚人一人を之に赦す例あり。人々は之を殺さん、かくて三日めに甦へるべし』弟子たち甚く悲しめり。我もしベルゼブルによりて惡鬼を逐ひ出さば、汝らの子は誰によりて之を逐ひ出すか。この故に彼らは汝らの審判人となるべし。即ち神の家に入りて、祭司のほかは、己もその伴へる人々も食ふまじき供のパンを食へり。弟子はその師のごとく、僕はその主の如くならば足れり。もし家主をベルゼブルと呼びたらんには、ましてその家の者をや。即ち神は「父母を敬へ」と言ひ「父または母を罵る者は必ず殺さるべし」と言ひたまへり。盲目なるパリサイ人よ、汝まづ酒杯の内を潔めよ、さらば外も潔くなるべし。善き人は善き倉より善き物をいだし、惡しき人は惡しき倉より惡しき物をいだす。然るに汝らは「誰にても父または母に對ひて、我が負ふ所のものは供物となりたりと言はば、我なんぢらに告ぐ、汝らの義、學者・パリサイ人に勝らずば、天國に入ること能はず。惡鬼ども請ひて言ふ『もし我らを逐ひ出さんとならば、豚の群に遣したまへ』されど我は汝らに告ぐ、惡しき者に抵抗ふな。人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ。「我らもし先祖の時にありしならば、預言者の血を流すことに與せざりしものを」と。人の子は己に就きて録されたる如く逝くなり。されど人の子を賣る者は禍害なるかな、その人は生れざりし方よかりしものを』ペテロ答へて言ふ『假令みな汝に就きて躓くとも我はいつまでも躓かじ』イエス、エルサレムに上らんとし給ふとき、竊に十二弟子を近づけて、途すがら言ひ給ふ、イエスなほ群衆にかたり居給ふとき、視よ、その母と兄弟たちと、彼に物言はんとて外に立つ。我らに負債ある者を我らの免したる如く、我らの負債をも免し給へ。また言ひ給ふ『この故に、天國のことを教へられたる凡ての學者は、新しき物と舊き物とをその倉より出す家主のごとし』同僚ども有りし事を見て甚く悲しみ、往きて有りし凡ての事をその主人に告ぐ。この言をききて、若者悲しみつつ去りぬ。大なる資産を有てる故なり。わが物を我が意のままにするは可からずや、我よきが故に汝の目あしきか」答へて言ひ給ふ『「人の生くるはパンのみに由るにあらず、神の口より出づる凡ての言に由る」と録されたり』ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ及びヨルダンの彼方より、大なる群衆きたり從へり。その果によりて彼らを知るべし。茨より葡萄を、薊より無花果をとる者あらんや。かくて門まで出で往きたるとき、他の婢女かれを見て、其處にをる者どもに向ひて『この人はナザレ人イエスと偕にゐたり』と言へるに、ヨセフ起きて、夜の間に幼兒とその母とを携へて、エジプトに去りゆき、それは汝の言によりて義とせられ、汝の言によりて罪せらるるなり』されどイエス默し居給ひたれば、大祭司いふ『われ汝に命ず、活ける神に誓ひて我らに告げよ、汝はキリスト、神の子なるか』御使こたへて女たちに言ふ『なんぢら懼るな、我なんぢらが十字架につけられ給ひしイエスを尋ぬるを知る。己がさばく審判にて己もさばかれ、己がはかる量にて己も量らるべし。かくて手をのべ、弟子たちを指して言ひたまふ『視よ、これは我が母、わが兄弟なり。まことに汝らに告ぐ、全世界いずこにても、この福音の宣傅へらるる處には、この女のなしし事も記念として語らるべし』夕になりて葡萄園の主人その家司に言ふ「勞動人を呼びて、後の者より始め、先の者にまで賃銀をはらへ」イエスあまねくガリラヤを巡り、會堂にて教をなし、御國の福音を宣べつたへ、民の中のもろもろの病、もろもろの疾患をいやし給ふ。されば總て世をふる事、アブラハムよりダビデまで十四代、ダビデよりバビロンに移さるるまで十四代、バビロンに移されてよりキリストまで十四代なり。己が頭を指して誓ふな、なんぢ頭髮一筋だに白くし、また黒くし能はねばなり。女たちの往きたるとき、視よ、番兵のうちの數人、都にいたり、凡て有りし事どもを祭司長らに告ぐ。凡てその所作は人に見られん爲にするなり。即ちその經札を幅ひろくし、衣の總を大くし、かくて、ガリラヤの海邊をあゆみて、二人の兄弟ペテロといふシモンとその兄弟アンデレとが、海に網うちをるを見給ふ、かれらは漁人なり。もし汝等わが言をうけんことを願はば、來るべきエリヤは此の人なり、されば、はや二人にはあらず、一體なり。この故に神の合せ給ひし者は、人これを離すべからず』總督こたへて彼らに言ふ『二人の中いづれを我が赦さん事を願ふか』彼らいふ『バラバなり』かくて直ちにイエスに近づき『ラビ、安かれ』といひて接吻したれば、イエス此處より進みたまふ時、ふたりの盲人さけびて『ダビデの子よ、我らを憫みたまへ』と言ひつつ從ふ。弟子たち其の海の上を歩み給ふを見て心騷ぎ、變化の者なりと言ひて懼れ叫ぶ。ヨハネ之を止めんとして言ふ『われは汝にバプテスマを受くべき者なるに、反つて我に來り給ふか』禍害なるかな、僞善なる學者、パリサイ人よ、汝らは白く塗りたる墓に似たり、外は美しく見ゆれども、内は死人の骨とさまざまの穢とにて滿つ。彼らの歸りたるをり、ヨハネの事を群衆に言ひ出でたまふ『なんぢら何を眺めんとて野に出でし、風にそよぐ葦なるか。イエス言ひ給ふ『「なんぢ心を盡し、精神を盡し、思を盡して主なる汝の神を愛すべし」天國は勞動人を葡萄園に雇ふために、朝早く出でたる主人のごとし。イエス言ひ給ふ『つつしみて誰にも語るな、ただ往きて己を祭司に見せ、モーセが命じたる供物を献げて、人々に證せよ』かくて夢にてヘロデの許に返るなとの御告を蒙り、ほかの路より己が國に去りゆきぬ。六日の後、イエス、ペテロ、ヤコブ及びヤコブの兄弟ヨハネを率きつれ、人を避けて高き山に登りたまふ。農夫どもその僕らを執へて、一人を打ちたたき、一人をころし、一人を石にて撃てり。その去り往きしのち、視よ、主の使、夢にてヨセフに現れていふ『起きて、幼兒とその母とを携へ、エジプトに逃れ、わが告ぐるまで彼處に留れ。ヘロデ幼兒を索めて亡さんとするなり』遂に人々かれに躓けり。イエス彼らに言ひたまふ『預言者は、おのが郷おのが家の外にて尊ばれざる事なし』弟子たち甚く憂ひて、おのおの『主よ、我なるか』と言ひいでしに、彼らをベツレヘムに遣さんとして言ふ『往きて幼兒のことを細にたづね、之にあはば我に告げよ。我も往きて拜せん』視よ、おのが目に梁木のあるに、いかで兄弟にむかひて、汝の目より塵をとり除かせよと言ひ得んや。わが汝らに命ぜし凡ての事を守るべきを教へよ。視よ、我は世の終まで常に汝らと偕に在るなり』イエス彼らを呼びて言ひたまふ『異邦人の君のその民を宰どり、大なる者の民の上に權を執ることは、汝らの知る所なり。また或人とほく旅立せんとして、其の僕どもを呼び、之に己が所有を預くるが如し。かれら言ふ『その惡人どもを飽くまで滅し、果期におよびて果を納むる他の農夫どもに葡萄園を貸し與ふべし』そこに立つ者のうち或人々これを聞きて『彼はエリヤを呼ぶなり』と言ふ。これ預言者イザヤによりて云はれたる言の成就せんためなり。曰く、五時頃また出でしに、なほ立つ者どものあるを見ていふ「何ゆゑ終日ここに空しく立つか」なほ語り給ふほどに、視よ、十二弟子の一人なるユダ來る、祭司長・民の長老らより遣されたる大なる群衆、劍と棒とをもちて之に伴ふ。償ひ方なかりしかば、其の主人、この者とその妻子と凡ての所有とを賣りて償ふことを命じたるに、また他の譬を語りたまふ『天國はパンだねのごとし、女これを取りて、三斗の粉の中に入るれば、ことごとく脹れいだすなり』視よ、或學者ら心の中にいふ『この人は神を瀆すなり』イエス言ひ給ふ『さらばダビデ御靈に感じて何故かれを主と稱ふるか。曰くここにイエス御靈によりて荒野に導かれ給ふ、惡魔に試みられんとするなり。茨の冠冕を編みて、その首に冠らせ、葦を右の手にもたせ、且その前に跪づき、嘲弄して言ふ『ユダヤ人の王、安かれ』もし之を見出さば、まことに汝らに告ぐ、迷はぬ九十九匹に勝りて此の一匹を喜ばん。誠に汝らに告ぐ、女の産みたる者のうち、バプテスマのヨハネより大なる者は起らざりき。されど天國にて小き者も、彼よりは大なり。イエス此處を去り、ガリラヤの海邊にいたり、而して山に登り、そこに坐し給ふ。イエスの復活ののち墓をいで、聖なる都に入りて、多くの人に現れたり。我がために、人なんぢらを罵り、また責め、詐りて各樣の惡しきことを言ふときは、汝ら幸福なり。人の子は父の榮光をもて、御使たちと共に來らん。その時おのおのの行爲に隨ひて報ゆべし。凡そおのれを高うする者は卑うせられ、己を卑うする者は高うせらるるなり。然るにパリサイ人ききて言ふ『この人、惡鬼の首ベルゼブルによらでは、惡鬼を逐ひ出すことなし』さらば、汝ら惡しき者ながら、善き賜物をその子らに與ふるを知る。まして天にいます汝らの父は、求むる者に善き物を賜はざらんや。また人は燈火をともして升の下におかず、燈臺の上におく。かくて燈火は家にある凡ての物を照すなり。されば復活の時、その女は七人のうち誰の妻たるべきか、彼ら皆これを妻としたればなり』無花果の樹よりの譬をまなべ、その枝すでに柔かくなりて葉芽ぐめば、夏の近きを知る。二タラントを受けし者も來りて言ふ「主よ、なんぢ我に二タラントを預けたりしが、視よ、他に二タラントを贏けたり」アサ、ヨサパテを生み、ヨサパテ、ヨラムを生み、ヨラム、ウジヤを生み、曾て洪水の前ノア方舟に入る日までは、人々飮み食ひ、娶り嫁がせなどし、エリウデ、エレアザルを生み、エレアザル、マタンを生み、マタン、ヤコブを生み、而して此の無益なる僕を外の暗黒に逐ひいだせ、其處にて哀哭・切齒することあらん」又なにゆゑ衣のことを思ひ煩ふや。野の百合は如何にして育つかを思へ、勞せず、紡がざるなり。その他の者ども言ふ『まて、エリヤ來りて彼を救ふや否や、我ら之を見ん』まことに汝に告ぐ、一厘ものこりなく償はずば、其處をいづること能はじ。我はまた汝に告ぐ、汝はペテロなり、我この磐の上に我が教會を建てん、黄泉の門はこれに勝たざるべし。その時われ明白に告げん「われ斷えて汝らを知らず、不法をなす者よ、我を離れされ」と。イエス之を知りて言ひ給ふ『ああ信仰うすき者よ、何ぞパン無きことを語り合ふか。ピラトに往きてイエスの屍體を請ふ。ここにピラト之を付すことを命ず。『なんぢらはキリストに就きて如何に思ふか、誰の子なるか』かれら言ふ『ダビデの子なり』『視よ、我らエルサレムに上る、人の子は祭司長・學者らに付されん。彼ら之を死に定め、又なんぢら戰爭と戰爭の噂とを聞かん、愼みて懼るな。かかる事はあるべきなり、されど未だ終にはあらず。人、全世界を贏くとも、己が生命を損せば、何の益あらん、又その生命の代に何を與へんや。イエスその邪曲なるを知りて言ひたまふ『僞善者よ、なんぞ我を試むるか。イエス、バプテスマを受けて直ちに水より上り給ひしとき、視よ、天ひらけ、神の御靈の、鴿のごとく降りて己が上にきたるを見給ふ。盲人どもの出づるとき、視よ、人々、惡鬼に憑かれたる唖者を御許につれきたる。ここにエルサレム及びユダヤ全國、またヨルダンの邊なる全地方の人々、ヨハネの許に出できたり、口に入るものは人を汚さず、されど口より出づるものは、これ人を汚すなり』御國のこの福音は、もろもろの國人に證をなさんため全世界に宣傅へられん、而してのち終は至るべし。されば汝らに告ぐ、審判の日にはツロとシドンとのかた汝等よりも耐へ易からん。さらば何のために出でし、預言者を見んとてか。然り、汝らに告ぐ、預言者よりも勝る者なり。遂にイエスこれを禁め給へば、惡鬼いでてその子この時より癒えたり。あくる日、即ち準備日の翌日、祭司長らとパリサイ人らとピラトの許に集りて言ふ、夕になりて、人々、惡鬼に憑かれたる者をおほく御許につれ來りたれば、イエス言にて靈を逐ひいだし、病める者をことごとく醫し給へり。その日その時を知る者なし、天の使たちも知らず、子も知らず、ただ父のみ知り給ふ。かくのごとく此の小き者の一人の亡ぶるは、天にいます汝らの父の御意にあらず。ヒゼキヤ、マナセを生み、マナセ、アモンを生み、アモン、ヨシヤを生み、この故に汝らは斯く祈れ。「天にいます我らの父よ、願はくは御名の崇められん事を。されば汝らに告ぐ、審判の日にはソドムの地のかた汝よりも耐へ易からん』イエス群衆を見て、山にのぼり、座し給へば、弟子たち御許にきたる。視よ、かれら叫びて言ふ『神の子よ、われら汝と何の關係あらん、未だ時いたらぬに、我らを責めんとて此處にきたり給ふか』誰にても言をもて人の子に逆ふ者は赦されん、されど言をもて聖靈に逆ふ者は、この世にても後の世にても赦されじ。ここに王その右にをる者どもに言はん「わが父に祝せられたる者よ、來りて世の創より汝等のために備へられたる國を嗣げ。これは預言者イザヤによりて『かれは自ら我らの疾患をうけ、我らの病を負ふ』と云はれし言の成就せん爲なり。ともに十字架につけられたる強盜どもも、同じ事をもてイエスを罵れり。その日もし少くせられずば、一人だに救はるる者なからん、されど選民の爲にその日少くせらるべし。それ生れながらの閹人あり、人に爲られたる閹人あり、また天國のために自らなりたる閹人あり、之を受け容れうる者は受け容るべし』ニネベの人、審判のとき今の代の人とともに立ちて之が罪を定めん、彼らはヨナの宣ぶる言によりて悔改めたり。視よ、ヨナよりも勝るもの此處に在り。充つれば岸にひきあげ、坐して良きものを器に入れ、惡しきものを棄つるなり。その處にて遙に望みゐたる多くの女あり、イエスに事へてガリラヤより從ひ來りし者どもなり。『主よ、かの惑すもの生き居りし時「われ三日の後に甦へらん」と言ひしを、我ら思ひいだせり。イエスこれらの言を語り終へて、ガリラヤを去り、ヨルダンの彼方なるユダヤの地方に來り給ひしに、われ律法また預言者を毀つために來れりと思ふな。毀たんとて來らず、反つて成就せん爲なり。ここにイエス答へて言ひたまふ『をんなよ、汝の信仰は大なるかな、願のごとく汝になれ』娘この時より癒えたり。『なんぢら言へ「その弟子ら夜きたりて、我らの眠れる間に彼を盜めり」と。彼らに、言ひたまふ『汝等のうち一匹の羊をもてる者あらんに、もし安息日に穴に陷らば、之を取りあげぬか。ここにイエス、己がキリストなる事を誰にも告ぐなと、弟子たちを戒め給へり。譬にて數多のことを語りて言ひたまふ、『視よ、種播く者まかんとて出づ。主人いふ「宜いかな、善かつ忠なる僕、なんぢは僅なる物に忠なりき。我なんぢに多くの物を掌どらせん、汝の主人の勸喜にいれ」されど我は汝らに告ぐ、淫行の故ならで其の妻をいだす者は、これに姦淫を行はしむるなり。また出されたる女を娶るものは、姦淫を行ふなり。イエス百卒長に『ゆけ、汝の信ずるごとく汝になれ』と言ひ給へば、このとき僕いえたり。除酵祭の初の日、弟子たちイエスに來りて言ふ『過越の食をなし給ふために、何處に我らが備ふる事を望み給ふか』イエス直ちに彼らに語りて言ひたまふ『心安かれ、我なり、懼るな』爰にイエス多くの能力ある業を行ひ給へる町々の悔改めぬによりて、之を責めはじめ給ふ、その首の上に『これはユダヤ人の王イエスなり』と記したる罪標を置きたり。汝等いかに思ふか、百匹の羊を有てる人あらんに、若しその一匹まよはば、九十九匹を山に遺しおき、往きて迷へるものを尋ねぬか。われ汝らに告ぐ、わが父の國にて新しきものを汝らと共に飮む日までは、われ今より後この葡萄の果より成るものを飮まじ』イエス言ひたまふ『幼兒らを許せ、我に來るを止むな、天國はかくのごとき者の國なり』イエス・キリストの誕生は左のごとし。その母マリヤ、ヨセフと許嫁したるのみにて、未だ偕にならざりしに、聖靈によりて孕り、その孕りたること顯れたり。このヨハネは駱駝の毛織衣をまとひ、腰に皮の帶をしめ、蝗と野蜜とを食とせり。盲人は見、跛者はあゆみ、癩病人は潔められ、聾者はきき、死人は甦へらせられ、貧しき者は福音を聞かせらる。人の子地にて罪を赦す權威あることを汝らに知らせん爲に』――ここに中風の者に言ひ給ふ――『起きよ、床をとりて汝の家にかへれ』未だ悟らぬか、五つのパンを五千人に分ちて、その餘を幾籃ひろひ、愚なる者は慧きものに言ふ「なんぢらの油を分けあたへよ、我らの燈火きゆるなり」また新しき葡萄酒をふるき革嚢に入るることは爲じ。もし然せば、嚢はりさけ酒ほどばしり出でて、嚢もまた廢らん。新しき葡萄酒は新しき革嚢にいれ、かくて兩ながら保つなり』ここに王、侍者らに言ふ「その手足を縛りて外の暗黒に投げいだせ、其處にて哀哭・切齒することあらん」イエス立ちどまり、彼らを呼びて言ひ給ふ『わが汝らに何を爲さんことを望むか』その時あるひは「視よ、キリスト此處にあり」或は「此處にあり」と言ふ者ありとも信ずな。その時イエス答へて言ひたまふ『天地の主なる父よ、われ感謝す、此等のことを智き者慧き者にかくして、嬰兒に顯し給へり。飼ふ者ども逃げて町にゆき、すべての事と惡鬼に憑かれたりし者の事とを告げたれば、答へて言ひ給ふ『なにゆゑ汝らは、また汝らの言傳によりて神の誡命を犯すか。まづ神の國と神の義とを求めよ、さらば凡てこれらの物は汝らに加へらるべし。良き地に落ちし種あり、あるひは百倍、あるひは六十倍、あるひは三十倍の實を結べり。父または母を敬ふに及ばず」と言ふ。斯くその言傳によりて神の言を空しうす。僕ども途に出でて、善きも惡しきも遇ふほどの者をみな集めたれば、婚禮の席は客にて滿てり。聖なる物を犬に與ふな。また眞珠を豚の前に投ぐな。恐らくは足にて蹈みつけ、向き返りて汝らを噛みやぶらん。ヨセフ起きて、幼兒とその母とを携へ、イスラエルの地に到りしに、喜びよろこべ、天にて汝らの報は大なり。汝等より前にありし預言者たちをも、斯く責めたりき。イエス答へて言ひ給ふ『バルヨナ・シモン、汝は幸福なり、汝に之を示したるは血肉にあらず、天にいます我が父なり。主人いふ「いな、恐らくは毒麥を拔き集めんとて、麥をも共に拔かん。此處には在さず、その言へる如く甦へり給へり。來りてその置かれ給ひし處を見よ。イエス言ひたまふ『我に從へ、死にたる者にその死にたる者を葬らせよ』この時イエス群衆に言ひ給ふ『なんぢら強盜に向ふごとく劍と棒とをもち、我を捕へんとて出で來るか。我は日々宮に坐して教へたりしに、汝ら我を捕へざりき。僕ども來りて家主にいふ「主よ、畑に播きしは良き種ならずや、然るに如何にして毒麥あるか」イエス言ひたまふ『都にゆき、某のもとに到りて「師いふ、わが時近づけり。われ弟子たちと共に過越を汝の家にて守らん」と言へ』また誠に汝らに告ぐ、もし汝等のうち二人、何にても求むる事につき地にて心を一つにせば、天にいます我が父は之を成し給ふべし。供物を祭壇のまへに遺しおき、先づ往きて、その兄弟と和睦し、然るのち來りて、供物をささげよ。イエスを賣るユダ答へて言ふ『ラビ、我なるか』イエス言ひ給ふ『なんぢの言へる如し』この故に收穫の主に、勞動人をその收穫場に遣し給はんことを求めよ』生命を得る者はこれを失ひ、我がために生命を失ふ者はこれを得べし。弟子たち問ひて言ふ『さらばエリヤ先づ來るべしと學者らの言ふは何ぞ』イエス答へて言ひ給ふ『なんぢらは求むる所を知らず、我が飮まんとする酒杯を飮み得るか』かれら言ふ『得るなり』アケラオその父ヘロデに代りてユダヤを治むと聞き、彼處に往くことを恐る。また夢にて御告を蒙り、ガリラヤの地方に退き、僞キリスト・僞預言者おこりて、大なる徴と不思議とを現し、爲し得べくば選民をも惑さんとするなり。主人こたへて言ふ「惡しくかつ惰れる僕、わが播かぬ處より刈り、散さぬ處より斂むることを知るか。「われら汝等のために笛吹きたれど、汝ら踊らず、歎きたれど、汝ら胸うたざりき」と言ふに似たり。汝ら見られんために己が義を人の前にて行はぬやうに心せよ。然らずば、天にいます汝らの父より報を得じ。狹き門より入れ、滅にいたる門は大きく、その路は廣く、之より入る者おほし。ヨハネ、ヘロデに『かの女を納るるは宜しからず』と言ひしに因る。イエス答へて言ひ給ふ『まことに汝らに告ぐ、もし汝ら信仰ありて疑はずば、啻に此の無花果の樹にありし如きことを爲し得るのみならず、此の山に「移りて海に入れ」と言ふとも亦成るべし。なんぢら我が飢ゑしときに食はせ、渇きしときに飮ませ、旅人なりし時に宿らせ、彼ら食しをる時、イエス、パンをとり、祝してさき、弟子たちに與へて言ひ給ふ『取りて食へ、これは我が體なり』僞預言者に心せよ、羊の扮裝して來れども、内は奪ひ掠むる豺狼なり。弟子たち御許にゆき、起して言ふ『主よ、救ひたまへ、我らは亡ぶ』われ汝らに告ぐ、人の語る凡ての虚しき言は、審判の日に糺さるべし。僞善者よ、まづ己が目より梁木をとり除け、さらば明かに見えて、兄弟の目より塵を取りのぞき得ん。答へて言ひたまふ『人を造り給ひしもの、元始より之を男と女とに造り、而して、人もし汝らを受けず、汝らの言を聽かずば、その家その町を立ち去るとき、足の塵をはらへ。邪曲にして不義なる代は徴を求む、されどヨナの徴の外に徴は與へられじ』かくて彼らを離れて去り給ひぬ。視よ、二人の盲人、路の傍らに坐しをりしが、イエスの過ぎ給ふことを聞き、叫びて言ふ『主よ、ダビデの子よ、我らを憫みたまへ』而して弟子たちの許に來りて言ひ給ふ『今は眠りて休め。視よ、時近づけり、人の子は罪人らの手に付さるるなり。パリサイ人とサドカイ人と來りてイエスを試み、天よりの徴を示さんことを請ふ。イエス言ひたまふ『「主なる汝の神を試むべからず」と、また録されたり』なんぢを訴ふる者とともに途に在るうちに、早く和解せよ。恐らくは、訴ふる者なんぢを審判人にわたし、審判人は下役にわたし、遂になんぢは獄に入れられん。遂に答へて『知らず』と言へり。イエスもまた言ひたまふ『我も何の權威をもて此等のことを爲すか汝らに告げじ。懼れてゆき、汝のタラントを地に藏しおけり。視よ、汝はなんぢの物を得たり」これは契約のわが血なり、多くの人のために、罪の赦を得させんとて流す所のものなり。もし人よりと言はんか、人みなヨハネを預言者と認むれば、我らは群衆を恐る』イエス弟子たちを召して言ひ給ふ『われ此の群衆をあはれむ、既に三日われと偕にをりて食ふべき物なし。飢ゑたるままにて歸らしむるを好まず、恐らくは途にて疲れ果てん』然るに人々顧みずして、或者は己が畑に、或者は己が商賣に往けり。されば命じて三日に至るまで墓を固めしめ給へ、恐らくはその弟子ら來りて之を盜み、「彼は死人の中より甦へれり」と民に言はん。然らば後の惑は前のよりも甚だしからん』又なんぢら我が名のために凡ての人に憎まれん。されど終まで耐へ忍ぶものは救はるべし。彼らの不信仰によりて其處にては多くの能力ある業を爲し給はざりき。彼は神に依り頼めり、神かれを愛しまば今すくひ給ふべし「我は神の子なり」と云へり』弟子たち之を見、怪しみて言ふ『無花果の樹の斯く立刻に枯れたるは何ぞや』請ひていふ『主よ、わが僕、中風を病み、家に臥しゐて甚く苦しめり』視よ、海に大なる暴風おこりて、舟波に蔽はるるばかりなるに、イエスは眠りゐ給ふ。『なにゆゑ汝の弟子は、古への人の言傳を犯すか、食事のときに手を洗はぬなり』かくてヘロデ、ヨハネを殺さんと思へど、群衆を懼れたり。群衆ヨハネを預言者とすればなり。なんぢは祈るとき、己が部屋にいり、戸を閉ぢて隱れたるに在す汝の父に祈れ。さらば隱れたるに見給ふなんぢの父は報い給はん。されど汝らはラビの稱を受くな、汝らの師は一人にして、汝等はみな兄弟なり。大なる群衆みもとに集りたれば、イエスは舟に乘りて坐したまひ、群衆はみな岸に立てり。女いふ『然り、主よ、小狗も主人の食卓よりおつる食屑を食ふなり』彼らに言ひ給ふ『ダビデがその伴へる人々とともに飢ゑしとき、爲しし事を讀まぬか。答へて言ひたまふ『子供のパンをとりて小狗に投げ與ふるは善からず』兄弟にのみ挨拶すとも何の勝ることかある、異邦人も然するにあらずや。パリサイ人見てイエスに言ふ『視よ、なんぢの弟子は安息日に爲まじき事をなす』群衆これを見ておそれ、かかる能力を人にあたへ給へる神を崇めたり。この故に視よ、我なんぢらに預言者・智者・學者らを遣さんに、其の中の或者を殺し、十字架につけ、或者を汝らの會堂にて鞭うち、町より町に逐ひ苦しめん。バビロンに移さるる頃、ヨシヤ、エコニヤとその兄弟らとを生めり。大祭司たちてイエスに言ふ『この人々が汝に對して立つる證據に何をも答へぬか』これ斷食することの人に顯れずして、隱れたるに在す汝の父にあらはれん爲なり。さらば隱れたるに見たまふ汝の父は報い給はん。イエス答へて言ひ給ふ『ああ信なき曲れる代なるかな、我いつまで汝らと偕にをらん、何時まで汝らを忍ばん。その子を我に連れきたれ』病める者をいやし、死にたる者を甦へらせ、癩病人をきよめ、惡鬼を逐ひいだせ。價なしに受けたれば價なしに與へよ。弟子たち言ふ『われらが此處にもてるは、唯五つのパンと二つの魚とのみ』イエス直ちに弟子たちを強ひて舟に乘らせ、自ら群衆をかへす間に、彼方の岸に先に往かしむ。イエス彼方にわたり、ガダラ人の地にゆき給ひしとき、惡鬼に憑かれたる二人のもの、墓より出できたりて之に遇ふ。その猛きこと甚だしく、其處の途を人の過ぎ得ぬほどなり。彼らに言ひ給ふ『モーセは汝の心つれなきによりて妻を出すことを許したり。されど元始より然にはあらぬなり。されば汝ら往きて、もろもろの國人を弟子となし、父と子と聖靈との名によりてバプテスマを施し、地を指して誓ふな、神の足臺なればなり。エルサレムを指して誓ふな、大君の都なればなり。また安息日に祭司らは宮の内にて安息日を犯せども、罪なきことを律法にて讀まぬか。されば我らに告げたまへ、貢をカイザルに納むるは可きか、惡しきか、如何に思ひたまふ』又その姉妹も皆われらと共にをるに非ずや。然るに此等のすべての事は何處より得しぞ』イエス此等のことを語りゐ給ふとき、視よ、一人の司きたり、拜して言ふ『わが娘いま死にたり。されど來りて御手を之におき給はば活きん』家にて食事の席につき居給ふとき、視よ、多くの取税人・罪人ら來りて、イエス及び弟子たちと共に列る。復なんぢらに告ぐ、富める者の神の國に入るよりは、駱駝の針の孔を通るかた反つて易し』彼なほ審判の座にをる時、その妻、人を遣して言はしむ『かの義人に係ることを爲な、我けふ夢の中にて彼の故にさまざま苦しめり』もし右の手なんぢを躓かせば、切りて棄てよ、五體の一つ亡びて、全身ゲヘナに往かぬは益なり。イエス言ひたまふ『狐は穴あり、空の鳥は塒あり、されど人の子は枕する所なし』洪水の來りて悉とく滅すまでは知らざりき、人の子の來るも然あるべし。なんぢら又いふ「人もし祭壇を指して誓はば事なし、其の上の供物を指して誓はば果さざるべからず」と。されば目を覺しをれ、汝らの主のきたるは、何れの日なるかを知らざればなり。弟子たちの許にきたり、その眠れるを見てペテロに言ひ給ふ『なんぢら斯く一時も我と共に目を覺し居ること能はぬか。これ天にいます汝らの父の子とならん爲なり。天の父は、その日を惡しき者のうへにも善き者のうへにも昇らせ、雨を正しき者にも正しからぬ者にも降らせ給ふなり。そのとき人々なんぢらを患難に付し、また殺さん、汝等わが名の爲に、もろもろの國人に憎まれん。この故にもし此等のいと小き誡命の一つをやぶり、且その如く人に教ふる者は、天國にて最小き者と稱へられ、之を行ひ、かつ人に教ふる者は、天國にて大なる者と稱へられん。空の鳥を見よ、播かず、刈らず、倉に收めず、然るに汝らの天の父は、これを養ひたまふ。汝らは之よりも遙に優るる者ならずや。イエス言ひたまふ『友よ、何とて來る』このとき人々すすみてイエスに手をかけて捕ふ。イエスに言ふ『なんぢ彼らの言ふところを聞くか』イエス言ひ給ふ『然り「嬰兒乳兒の口に讃美を備へ給へり」とあるを未だ讀まぬか』されど人の前にて我を否む者を、我もまた天にいます我が父の前にて否まん。乃ち「わが出でし家に歸らん」といひ、歸りて、その家の空きて掃き淨められ、飾られたるを見、ここに弟子たち竊にイエスに來りて言ふ『われらは何故に逐ひ出し得ざりしか』かくてイエス司の家にいたり、笛ふく者と騷ぐ群衆とを見て言ひたまふ、夜明けになりて、凡ての祭司長・民の長老ら、イエスを殺さんと相議り、主人こたへて其の一人に言ふ「友よ、我なんぢに不正をなさず、汝は我と一デナリの約束をせしにあらずや。イエス弟子たちに言ひ給ふ『まことに汝らに告ぐ、富める者の天國に入るは難し。かくのごとく汝らも外は人に正しく見ゆれども、内は僞善と不法とにて滿つるなり。之によりて義人アベルの血より、聖所と祭壇との間にて汝らが殺ししバラキヤの子ザカリヤの血に至るまで、地上にて流したる正しき血は、皆なんぢらに報い來らん。祭司長ら、長老らと共に集りて相議り、兵卒どもに多くの銀を與へて言ふ、ペテロ『納む』と言ひ、やがて家に入りしに、逸速くイエス言ひ給ふ『シモンいかに思ふか、世の王たちは税または貢を誰より取るか、己が子よりか、他の者よりか』われ汝らに告ぐ、おほよそ淫行の故ならで其の妻をいだし他に娶る者は、姦淫を行ふなり』ここに弟子たちイエスの心せよと言ひ給ひしは、パンの種にはあらで、パリサイ人とサドカイ人との教なることを悟れり。この故に汝らに告ぐ、人の凡ての罪と瀆とは赦されん、されど御靈を瀆すことは赦されじ。ユダ、タマルによりてパレスとザラとを生み、パレス、エスロンを生み、エスロン、アラムを生み、或人イエスに言ふ『視よ、なんぢの母と兄弟たちと、汝に物言はんとて外に立てり』人は二人の主に兼ね事ふること能はず、或はこれを憎み彼を愛し、或はこれに親しみ彼を輕しむべければなり。汝ら神と富とに兼ね事ふること能はず。また朝には「そら赤くして曇る故に、今日は風雨ならん」と言ふ。なんぢら空の氣色を見分くることを知りて、時の徴を見分くること能はぬか。「我はアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神なり」と言ひ給へることを未だ讀まぬか。神は死にたる者の神にあらず、生ける者の神なり』『主よ、わが子を憫みたまへ。癲癇にて難み、しばしば火の中に、しばしば水の中に倒るるなり。ここに彼らも答へて言はん「主よ、いつ汝の飢ゑ、或は渇き、或は旅人、あるひは裸、あるひは病み、或は獄に在りしを見て事へざりし」視よ、町人こぞりてイエスに逢はんとて出できたり、彼を見て、この地方より去り給はんことを請へり。視よ、片手なえたる人あり。人々イエスを訴へんと思ひ、問ひていふ『安息日に人を醫すことは善きか』七つのパンと魚とを取り、謝して之をさき弟子たちに與へ給へば、弟子たちこれを群衆に與ふ。ペテロ差出でてイエスに言ふ『主よ、我らの此處に居るは善し。御意ならば我ここに三つの廬を造り、一つを汝のため、一つをモーセのため、一つをエリヤの爲にせん』ここに人々イエスの手をおきて祈り給はんことを望みて、幼兒らを連れ來りしに、弟子たち禁めたれば、また一タラントを受けし者もきたりて言ふ「主よ、我はなんぢの嚴しき人にて、播かぬ處より刈り、散らさぬ處より斂むることを知るゆゑに、彼ら銀をとりて言ひ含められたる如くしたれば、此の話ユダヤ人の中にひろまりて、今日に至れり。イエスこの十二人を遣さんとて、命じて言ひたまふ。『異邦人の途にゆくな、又サマリヤ人の町に入るな。また天を指して誓ふ者は、神の御座とその上に坐したまふ者とを指して誓ふなり。電光の東より出でて西にまで閃きわたる如く、人の子の來るも亦然らん。身を殺して靈魂をころし得ぬ者どもを懼るな、身と靈魂とをゲヘナにて滅し得る者をおそれよ。己が郷にいたり、會堂にて教へ給へば、人々おどろきて言ふ『この人はこの智慧と此等の能力とを何處より得しぞ。爰にイエスかれらの目に觸りて言ひたまふ『なんぢらの信仰のごとく汝らに成れ』我が言ひしはパンの事にあらぬを何ぞ悟らざる。唯パリサイ人とサドカイ人とのパンだねに心せよ』視よ、我なんぢらを遣すは、羊を豺狼のなかに入るるが如し。この故に蛇のごとく慧く、鴿のごとく素直なれ。なんぢら己がために財寶を天に積め、かしこは蟲と錆とが損はず、盜人うがちて盜まぬなり。雨ふり流みなぎり、風ふきてその家をうてど倒れず、これ磐の上に建てられたる故なり。婚筵に招きおきたる人々を迎へんとて僕どもを遺ししに、來るを肯はず。その後かの他の處女ども來りて「主よ、主よ、われらの爲にひらき給へ」と言ひしに、この故に汝もし供物を祭壇にささぐる時、そこにて兄弟に怨まるる事あるを思ひ出さば、イエス之を知りて言ひたまふ『何ぞこの女を惱すか、我に善き事をなせるなり。答へて言ひたまふ『我はイスラエルの家の失せたる羊のほかに遣されず』『向の村にゆけ、やがて繋ぎたる驢馬のその子とともに在るを見ん、解きて我に牽ききたれ。ここにかの人に言ひ給ふ『なんぢの手を伸べよ』かれ伸べたれば、他の手のごとく癒ゆ。また古への人に「いつはり誓ふなかれ、なんぢの誓は主に果すべし」と云へる事あるを汝ら聞けり。イエス進みきたり、彼らに語りて言ひたまふ『我は天にても地にても一切の權を與へられたり。すべて此の事の起りしは、預言者によりて主の云ひ給ひし言の成就せん爲なり。曰く、われ天國の鍵を汝に與へん、凡そ汝が地にて縛ぐ所は天にても縛ぎ、地にて解く所は天にても解くなり』此の事の起りしは、預言者によりて云はれたる言の成就せん爲なり。曰く、誘惑に陷らぬやう、目を覺しかつ祈れ。實に心は熱すれども肉體よわきなり』さらば何を見んとて出でし、柔かき衣を著たる人なるか。視よ、やはらかき衣を著たる者は、王の家に在り。然るに一タラントを受けし者は、往きて地を掘り、その主人の銀をかくし置けり。なんぢら己がために財寶を地に積むな、ここは蟲と錆とが損ひ、盜人うがちて盜むなり。かくてペテロとゼベダイの子二人とを伴ひゆき、憂ひ悲しみ出でて言ひ給ふ、彼らエルサレムに近づき、オリブ山の邊なるベテパゲに到りし時、イエス二人の弟子を遣さんとして言ひ給ふ、されど彼らを躓かせぬ爲に、海に往きて釣をたれ、初に上る魚をとれ、其の口をひらかば銀貨一つを得ん、それを取りて我と汝との爲に納めよ』其のとき義人は父の御國にて日のごとく輝かん。耳ある者は聽くべし。答へて言ひ給ふ『なんぢらは天國の奧義を知ることを許されたれど、彼らは許されず。また彼は使たちを大なるラッパの聲とともに遣さん。使たちは天の此の極より彼の極まで、四方より選民を集めん。之を烈しく笞うち、その報を僞善者と同じうせん。其處にて哀哭・切齒することあらん。一人の學者きたりて言ふ『師よ、何處にゆき給ふとも、我は從はん』。イエスはヘロデ王の時、ユダヤのベツレヘムに生れ給ひしが、視よ、東の博士たちエルサレムに來りて言ふ、彼らに言ひ給ふ『なにゆゑ臆するか、信仰うすき者よ』乃ち起きて、風と海とを禁め給へば、大なる凪となりぬ。視よ、或人みもとに來りて言ふ『師よ、われ永遠の生命をうる爲には、如何なる善き事を爲すべきか』それヨハネ義の道をもて來りしに、汝らは彼を信ぜず、取税人と遊女とは信じたり。然るに汝らは之を見し後も、なほ悔改めずして信ぜざりき。ここに弟子たちバプテスマのヨハネを指して言ひ給ひしなるを悟れり。答へて言ひ給ふ『なんぢら此の一切の物を見ぬか。誠に汝らに告ぐ、此處に一つの石も崩されずしては石の上に遺らじ』祭司長・パリサイ人ら、イエスの譬をきき、己らを指して語り給へるを悟り、ここにイエス彼に言ひ給ふ『なんぢの劍をもとに收めよ、すべて劍をとる者は劍にて亡ぶるなり。イエス彼に言ひたまふ『何を望むか』かれ言ふ『この我が二人の子が汝の御國にて、一人は汝の右に、一人は左に坐せんことを命じ給へ』イエス聞きて怪しみ、從へる人々に言ひ給ふ『まことに汝らに告ぐ、かかる篤き信仰はイスラエルの中の一人にだに見しことなし。イエス、ピリポ・カイザリヤの地方にいたり、弟子たちに問ひて言ひたまふ『人々は人の子を誰と言ふか』斯くその主人、怒りて、負債をことごとく償ふまで彼を獄卒に付せり。ここにゼベダイの子らの母、その子らと共に御許にきたり、拜して何事か求めんとしたるに、二羽の雀は一錢にて賣るにあらずや、然るに、汝らの父の許なくば、その一羽も地に落つること無からん。遂に往きて己より惡しき他の七つの靈を連れきたり、共に入りて此處に住む。されば其の人の後の状は前よりも惡しくなるなり。邪曲なる此の代もまた斯くの如くならん』このとき天國は、燈火を執りて新郎を迎へに出づる、十人の處女に比ふべし。ここに王こたへて言はん「誠になんぢらに告ぐ、此等のいと小きものの一人に爲さざりしは、即ち我になさざりしなり」と。『ユダヤ人の王とて生れ給へる者は、何處に在すか。我ら東にてその星を見たれば、拜せんために來れり』又なんぢらに告ぐ、多くの人、東より西より來り、アブラハム、イサク、ヤコブとともに天國の宴につき、ここにイエス弟子たちに言ひ給ふ『今宵なんぢら皆われに就きて躓かん「われ牧羊者を打たん、さらば群の羊散るべし」と録されたるなり。ここにイエス弟子たちに言ひたまふ『人もし我に從ひ來らんと思はば、己をすて、己が十字架を負ひて、我に從へ。主人いふ「宜いかな、善かつ忠なる僕、なんぢは僅なる物に忠なりき。我なんぢに多くの物を掌どらせん、汝の主人の勸喜に入れ」かれ凡ての人の前に肯はずして言ふ『われは汝の言ふことを知らず』暗黒にて我が告ぐることを光明にて言へ。耳をあてて聽くことを屋の上にて宣べよ。宮を指して誓ふ者は、宮とその内に住みたまふ者とを指して誓ふなり。これらの日の患難ののち直ちに日は暗く、月は光を發たず、星は空より隕ち、天の萬象ふるひ動かん。そのとき弟子たちイエスに來りて言ふ『しからば天國にて大なるは誰か』人の子その榮光をもて、もろもろの御使を率ゐきたる時、その榮光の座位に坐せん。五タラントを受けし者は他に五タラントを持ちきたりて言ふ「主よ、なんぢ我に五タラントを預けたりしが、視よ、他に五タラントを贏けたり」御國の子らは外の暗きに逐ひ出され、そこにて哀哭・切齒することあらん』それ心より惡しき念いづ、すなはち殺人・姦淫・淫行・竊盜・僞證・誹謗、汝等これを知れ、家主もし盜人いづれの時きたるかを知らば、目をさまし居て、その家を穿たすまじ。イエス之を聞きて人を避け、其處より舟にのりて寂しき處に往き給ひしを群衆ききて町々より徒歩にて從ひゆく。この二人のうち孰か父の意を爲しし』彼らいふ『後の者なり』イエス言ひ給ふ『まことに汝らに告ぐ、取税人と遊女とは汝らに先だちて神の國に入るなり。さらば我が銀を銀行にあづけ置くべかりしなり、我きたりて利子とともに我が物をうけ取りしものを。彼らを捨ておけ、盲人を手引する盲人なり、盲人もし盲人を手引せば、二人とも穴に落ちん』パリサイ人ら來り、イエスを試みて言ふ『何の故にかかはらず、人その妻を出すは可きか』ここにヨハネの弟子たち御許にきたりて言ふ『われらとパリサイ人は斷食するに、何故なんぢの弟子たちは斷食せぬか』イエス此處より進みて、マタイといふ人の收税所に坐しをるを見て『我に從へ』と言ひ給へば、立ちて從へり。もし汝の眼なんぢを躓かせば、拔きて棄てよ。片眼にて生命に入るは、兩眼ありて火のゲヘナに投げ入れらるるよりも勝るなり。祭司長・學者らイエスの爲し給へる不思議なる業と、宮にて呼はり『ダビデの子にホサナ』と言ひをる子等とを見、憤ほりて、かくのごとく汝らも此等のすべての事を見ば、人の子すでに近づきて門邊に到るを知れ。群衆かれらを禁めて默さしめんとしたれど、愈々叫びて言ふ『主よ、ダビデの子よ、我らを憫み給へ』穢れし靈、人を出づるときは、水なき處を巡りて休を求む、而して得ず。世の終にも斯くあるべし。御使たち出でて、義人の中より惡人を分ちて、之に言ふ「友よ、如何なれば禮服を著けずして此處に入りたるか」かれ默しゐたり。善き樹は惡しき果を結ぶこと能はず、惡しき樹はよき果を結ぶこと能はず。「この後の者どもは僅に一時間はたらきたるに、汝は一日の勞と暑さとを忍びたる我らと均しく之を遇へり」然るに其の家來いでて、己より百デナリを負ひたる一人の同僚にあひ、之をとらへ、喉を締めて言ふ「負債を償へ」今日ありて明日爐に投げ入れらるる野の草をも、神はかく裝ひ給へば、まして汝らをや、ああ信仰うすき者よ。その家もし之に相應しくば、汝らの祈る平安はその上に臨まん。もし相應しからずば、その平安はなんぢらに歸らん。路の傍なる一もとの無花果の樹を見て、その下に到り給ひしに、葉のほかに何をも見出さず、之に對ひて『今より後いつまでも果を結ばざれ』と言ひ給へば、無花果の樹たちどころに枯れたり。それは學者らの如くならず、權威ある者のごとく教へ給へる故なり。即ち「ヨナが三日三夜、大魚の腹の中に在りし」ごとく、人の子も三日三夜、地の中に在るべきなり。ここにイエス言ひ給ふ『サタンよ、退け「主なる汝の神を拜し、ただ之にのみ事へ奉るべし」と録されたるなり』この故に彼らには譬にて語る、これ彼らは見ゆれども見ず、聞ゆれども聽かず、また悟らぬ故なり、視よ、聖所の幕、上より下まで裂けて二つとなり、また地震ひ、磐さけ、手には箕を持ちて禾場をきよめ、その麥は倉に納め、殼は消えぬ火にて燒きつくさん』イエス之を知りて此處を去りたまふ。多くの人したがひ來りたれば、ことごとく之を醫し、イエスを捕へたる者ども、學者・長老らの集り居る大祭司カヤパの許に曳きゆく。もし汝の兄弟罪を犯さば、往きてただ彼とのみ相對して諫めよ。もし聽かば其の兄弟を得たるなり。かくて、これらの事を思ひ囘らしをるとき、視よ、主の使、夢に現れて言ふ『ダビデの子ヨセフよ、妻マリヤを納るる事を恐るな。その胎に宿る者は聖靈によるなり。預言者たる名の故に預言者をうくる者は、預言者の報をうけ、義人たる名のゆゑに義人をうくる者は、義人の報を受くべし。茨の中に播かれしとは、御言をきけども、世の心勞と財貨の惑とに、御言を塞がれて實らぬものなり。ペテロ言ふ『ほかの者より』イエス言ひ給ふ『されば子は自由なり。なんぢら預言者ダニエルによりて言はれたる「荒す惡むべき者」の聖なる處に立つを見ば(讀む者さとれ)されど我は汝らに告ぐ、一切ちかふな、天を指して誓ふな、神の御座なればなり。なんぢら己を愛する者を愛すとも何の報をか得べき、取税人も然するにあらずや。イエス言ひたまふ『善き事につきて何ぞ我に問ふか、善き者は唯ひとりのみ。汝もし生命に入らんと思はば誡命を守れ』イエス彼らに言ひ給ふ『まことに汝らに告ぐ、世あらたまりて人の子その榮光の座位に坐するとき、我に從へる汝等もまた十二の座位に坐して、イスラエルの十二の族を審かん。ここにピラト彼に言ふ『聞かぬか、彼らが汝に對して如何におほくの證據を立つるを』旅人なりしときに宿らせず、裸なりしときに衣せず、病みまた獄にありしときに訪はざればなり」かれ子を生まん、汝その名をイエスと名づくべし。己が民をその罪より救ひ給ふ故なり』ここにペテロ盟ひかつ契ひて『我その人を知らず』と言ひ出づるをりしも、鷄鳴きぬ。ここに彼等その御顏に唾し、拳にて搏ち、或者どもは手掌にて批きて言ふ身の燈火は目なり。この故に汝の目ただしくば、全身あかるからん。『なんぢらの知るごとく、二日の後は過越の祭なり、人の子は十字架につけられん爲に賣らるべし』かくのごとく汝らの光を人の前にかがやかせ。これ人の汝らが善き行爲を見て、天にいます汝らの父を崇めん爲なり。その處の人々イエスを認めて、あまねく四方に人をつかはし、又すべての病める者を連れきたり、凡ての人くらひて飽き、裂きたる餘を拾ひしに、七つの籃に滿ちたり。ここに總督の兵卒ども、イエスを官邸につれゆき、全隊を御許に集め、されば誰にても此の幼兒のごとく己を卑うする者は、これ天國にて大なる者なり。我なんぢらに告ぐ、エリヤは既に來れり。されど人々これを知らず、反つて心のままに待へり。かくのごとく人の子もまた人々より苦しめらるべし』ここにイエスとともに二人の強盜、十字架につけられ、一人はその右に、一人はその左におかる。多くの者わが名を冒し來り「我はキリストなり」と言ひて多くの人を惑さん。イエス彼らの思を知りて言ひ給ふ『すべて分れ爭ふ國はほろび、分れ爭ふ町また家はたたず。ヨハネ、パリサイ人およびサドカイ人のバプテスマを受けんとて、多く來るを見て、彼らに言ふ『蝮の裔よ、誰が汝らに、來らんとする御怒を避くべき事を示したるぞ。ここにイエス彼らと共にゲツセマネといふ處にいたりて、弟子たちに言ひ給ふ『わが彼處にゆきて祈る間、なんぢら此處に坐せよ』彼ら買はんとて往きたる間に新郎きたりたれば、備へをりし者どもは彼とともに婚筵にいり、而して門は閉されたり。果期ちかづきたれば、その果を受取らんとて僕らを農夫どもの許に遣ししに、暫くして其處に立つ者ども近づきてペテロに言ふ『なんぢも慥にかの黨與なり、汝の國訛なんぢを表せり』地にある者を父と呼ぶな、汝らの父は一人、すなはち天に在す者なり。ヨハネの弟子たち來り、屍體を取りて葬り、往きて、イエスに告ぐ。宮に到りて教へ給ふとき、祭司長・民の長老ら御許に來りて言ふ『何の權威をもて此等の事をなすか、誰がこの權威を授けしか』さらば彼らに效ふな、汝らの父は求めぬ前に、なんぢらの必要なる物を知りたまふ。ある女、石膏の壺に入りたる貴き香油を持ちて、近づき來り、食事の席に就き居給ふイエスの首に注げり。オリブ山に坐し給ひしとき、弟子たち竊に御許に來りて言ふ『われらに告げ給へ、これらの事は何時あるか、又なんぢの來り給ふと世の終とには、何の兆あるか』ヤコブ、マリヤの夫ヨセフを生めり。此のマリヤよりキリストと稱ふるイエス生れ給へり。イエス言ひたまふ『愼みてパリサイ人とサドカイ人とのパン種に心せよ』ここに惡魔イエスを聖なる都につれゆき、宮の頂上に立たせて言ふ、誠に汝らに告ぐ、これらの事ことごとく成るまで、今の代は過ぎ往くまじ。萬の種よりも小けれど、育ちては他の野菜よりも大く、樹となりて、空の鳥きたり其の枝に宿るほどなり』後ナザレを去りて、ゼブルンとナフタリとの境なる、海邊のカペナウムに到りて住み給ふ。されどイエス一言も答へ給はず。弟子たち來り請ひて言ふ『女を歸したまへ、我らの後より叫ぶなり』『わが心いたく憂ひて死ぬばかりなり。汝ら此處に止りて我と共に目を覺しをれ』人は羊より優るること如何ばかりぞ。さらば安息日に善をなすは可し』遂にエルサレムに入り給へば、都擧りて騷立ちて言ふ『これは誰なるぞ』更に進みゆきて、また二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネとが、父ゼベダイとともに舟にありて網を繕ひをるを見て呼び給へば、視よ、中風にて床に臥しをる者を、人々みもとに連れ來れり。イエス彼らの信仰を見て、中風の者に言ひたまふ『子よ、心安かれ、汝の罪ゆるされたり』畑は世界なり、良き種は天國の子どもなり、毒麥は惡しき者の子どもなり、是みな異邦人の切に求むる所なり。汝らの天の父は、凡てこれらの物の汝らに必要なるを知り給ふなり。アブラハム、イサクを生み、イサク、ヤコブを生み、ヤコブ、ユダとその兄弟らとを生み、禍害なるかな、僞善なる學者、パリサイ人よ、汝らは預言者の墓をたて、義人の碑を飾りて言ふ、イエス言ひたまふ『新郎の友だち、新郎と偕にをる間は、悲しむことを得んや。されど新郎をとらるる日きたらん、その時には斷食せん。されど汝の目あしくば、全身くらからん。もし汝の内の光、闇ならば、その闇いかばかりぞや。汝らを受くる者は、我を受くるなり。我をうくる者は、我を遣し給ひし者を受くるなり。惡魔またイエスを最高き山につれゆき、世のもろもろの國と、その榮華とを示して言ふ、この故に明日のことを思ひ煩ふな、明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の苦勞は一日にて足れり。禍害なるかな、僞善なる學者、パリサイ人よ、汝らは薄荷・蒔蘿・クミンの十分の一を納めて、律法の中にて尤も重き公平と憐憫と忠信とを等閑にす。されど之は行ふべきものなり、而して、彼もまた等閑にすべきものならず。祭司長らその銀をとりて言ふ『これは血の價なれば、宮の庫に納むるは可からず』これに言ひたまふ『我に從ひきたれ、さらば汝らを人を漁る者となさん』バビロンに移されて後、エコニヤ、サラテルを生み、サラテル、ゾロバベルを生み、まことに汝らに告ぐ、ここに立つ者のうちに、人の子のその國をもて來るを見るまでは、死を味はぬ者どもあり』視よ、イエス彼らに遇ひて『安かれ』と言ひ給ひたれば、進みゆき、御足を抱きて拜す。ここに惡鬼に憑かれたる盲目の唖者を御許に連れ來りたれば、之を醫して、唖者の物言ひ見ゆるやうに爲し給ひぬ。主人いふ「仇のなしたるなり」僕ども言ふ「さらば我らが往きて之を拔き集むるを欲するか」