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1.6  東武野田線 岩槻 P:梶村昭仁西武鉄道3000系3003Fは、クハ3003+モハ3103+モハ3104+モハ3203+モハ3204+モハ3303+モハ3304+クハ3304からなる列車で1983年11月に東急車輛製作所で製造された。しかし3ドア8輌のため、通勤時間帯にはむいてなかった。30000系の置き替えのため、2013年10月6日、横瀬車両基地でのイベントへの臨時列車での運転を最後に引退した。 '13.10.6 西武池袋線 秋津-所沢 P:須永一暉埼玉県北部の東武伊勢崎線羽生駅から高崎線熊谷駅を介し秩父山脈のどん詰りの三峰口間約72km余りの中小民鉄。写真の100形はオリジナル車両として1950年から新製及旧型車両更新も含めて13両が在籍。18.8m級2扉ながら車内はオールロング座席。当初は両運転台であったが、同時に製造されたクハ60形(車体は3扉)、クハニ20形、クハユ30形等も在籍していた。旧国鉄・JRから旧101系車両と順次代替が行われて1988年6月までに引退した。 ’83.1.6 羽生 P:梶村昭仁京成電鉄AE車は1972年に成田空港の開港予定に合わせて登場し’73年のブルーリボン賞を受賞したが、空港の完成が遅れたために、’73年暮れから上野~成田間のノンストップ特急として使用を開始した。’83年に塗装を変更し、1991年のターミナル駅の変更などにより需要増加に答え8輌編成に編成替をおこなったが、後継のAE100形が登場したためにスカイライナーの運用を離脱し、通勤型の3400形に生まれ変わった。 ’81.1.1 京成成田 P:深山剛志伊勢崎線快速用車輌の体質改善のために1964年に登場した2ドアセミクロスシート車。デッキなしの仕様ではあったが、ズラリと並ぶボックスシートは当時の国鉄急行型に相通ずる長距離用車輌の雰囲気があった。2連×22本=44輌が製造されたが、非冷房であったことなどが影響し1985年から1986年に掛けて全車が6050系に更新され、姿を消した。 写真は1980年、蒲生駅にて撮影。 左から、上り本線に快速浅草行6000系、中線に上りED5050型重連貨物列車、下り本線に78系準急と、懐かしい顔ぶれが並んでいる。今では、車輌はおろか駅の施設にも、その面影すら見当たらない。 ’80.8 伊勢崎線 蒲生 P:清水祥史能勢電には元阪急の木造車デロ10系がポールをつけて活躍していたが、阪急の320形全鋼車の入線を機会に1966年にパンタグラフ化された。デロ10系もパンタグラフとなり、往年千里山線で活躍したような姿が復活した。能勢電では2個モーター車を10形と称しMc+Mcで使用。4個モーター車は20形でMc+tcで偶数番号がMc,奇数番号がTcであった。現在山下駅は高架となり長大編成が走り回る様は隔世の感に堪えない。木造車は1968年には廃車となった。 '67.5 能勢電気軌道 山下 P:永野晴樹「山陽電車」のかつての神戸の始発駅は国鉄兵庫駅のすぐ北側にありました。発車した電車は次の西代駅までの間、がらんとした道路の真ん中をしずしずと進みます。横を走る神戸市バスや背後の町並み、交通量の少なさがなんとものどかな雰囲気を醸し出しています。現在はこの区間、地下にもぐって神戸高速鉄道となっています。この2000系は鋼製車、アルミ車、ステンレス車…と同じ形式ながら違った素材の『異母兄弟』のような不思議な存在でした。 ’63.2.23 電鉄兵庫付近の併用軌道 P:柿浦和敏新幹線に多くの乗客を奪われた名阪ノンストップ特急を立て直すため、シートピッチ980mmのリクライニングシートや軽食を販売するスナックコーナーを設けた12000系2連10本が1967年12月に登場した。本形式で採用された、180kw電動機、カバー付き貫通扉、埋込式前照灯、一体配置の標識灯尾灯、などが近鉄特急の標準となり1988年アーバンライナーが登場するまで長らく装備された。パンダグラフは連結面1基だったが運転台側にも1基増設された。事故廃車の2本を除いた8本が1983年10月~1985年7月に車体更新され休止していたスナックコーナーは車販基地となった。晩年は名伊乙特急で運用され2000年8月のさよなら運転を最後に引退した。尚、スナックコーナーのコンセプトは時を経て観光特急「しまかぜ」で復活した。 '77.11 近鉄山田線 宇治山田 P:楢井勝行新生駒トンネル開通後、名車800形に代わり大阪(上本町)-奈良間の特急運用に進出して間もない頃900系。奈良線初の20m車である。鹿のマークも颯爽と平城宮跡の直線区間を快走する大阪行き特急。900系は2002年に全車廃車となっている。 ’65.2.14 奈良線 西大寺-油坂 P:柿浦和敏1964年~1967年に宝塚線用昇圧準備車として3100系が新製された。Tc-M-T-Mc+Tc-Mc の6連と Tc-M-T-Mc+Tc-M-Mc の7連で新製されるが、M車の増備及び他系列からのT車編入により全車 Tc-M-T-Mc+Tc-M-T-Mc の8連となる。1975年より冷房改造・M車ユニット化改造され Tc-M-T-Mc'+Tc-M-T-Mc' となった。1988年より、分割し Tc-M-T-Mc' の4連、T車を楢井勝行減車し Tc-M-Mc'+Tc-M-Mc' の6連となり支線運用に転じた。4連になった3158Fは箕面線で活躍したが2012年2月廃車された。 '09.3.28 阪急箕面線 石橋 P:楢井勝行1993年に在来車の置き換え用として営団地下鉄日比谷線の3000系「マッコウクジラ」を譲り受けた車両。このN5編成は営団時代に3061号と3062号を名乗っていた車輌で、東武線直通対応編成であった。2001年に冷房化が施工されたが、2012年の屋代線廃止に伴う運用見直しなどの関係により廃車となった。 '12.3.6 長野電鉄長野線小布施 P:厚木貴匡屋根が深い、いわゆる川造型タイプの昭和4年日本車輛で、豊川鉄道のモハ30形31として誕生した。その後国鉄に買収され、宇部線、福塩線を経て、国鉄形式1610となり、昭和31年頃廃車され、豊川分工場で更新の上、豊橋鉄道田口線へ払い下げられ、田口線の同型車モ36・モ37の続番としてモ38となった。田口線の経営が思わしくなく、昭和41年頃降圧の上、渥美線に転じ同線のモ1713となり、片運化されク2311と編成を組んだ。いつ頃からかは分からないが台車は川崎のK3を履いている。昭和61年頃編成ごと廃車された。 '62年 豊橋鉄道 高師 P:田中健吉1958年最後の旧型特急車として6431系2編成4輌が名古屋線に登場した。1965年に格下げ改造され3扉ロングシート車となったが、旧型車とは思えない明るい2連窓、掛け心地の良い深いロングシートなど特徴のある車輌だった。名古屋線山田線ローカル列車で運用された後、1979年に養老線に転属。養老線の新性能化に伴い1993年に全廃された。 '78.2 近鉄山田線 東松阪-櫛田 P:楢井勝行1931(昭和6)年、日本車輌製。1964(昭和39)年事故で廃車となったキハ2の二代目として三岐鉄道から購入。1984年の廃止時まで使用された。 '83.10 土山線 土山-中野 P:芝地寛之5200形は5000形の電機品・台車を使用して1958(昭和33)年に製作された国産ステンレス車第1号。外版は独特の帯状プレスを施したステンレス張りで台枠や柱は鋼製。全長は17.5mで5000系より50cm短い。 大井町線 等々力 P:田中健吉1959年に登場、A編成とペアを組み名阪特急で活躍した。B編成は5編成用意され、パンタなしのモ10300が流線型先頭車であったのでのっぺりとした印象が強かった。1978年当時、山田線では名伊特急に充当されていた。1977年から1979年に廃車された。 '78.2 近鉄山田線 東松阪-櫛田 P:楢井勝行モハ31形は昭和27年に譲渡された台車に車体を新造した。モハ12は後から追加された細い乗務員扉が特徴で同型車が2形在籍しモハ31とともに加茂~村松間の単行運転に使用された。 '79.8 蒲原鉄道 七谷 P:深山剛志1963年にパノラマカー7000系をベースに低重心化と高性能化を進めた車輌として登場、複巻電動機を採用し高加速・高速度を高めた車両として登場した。外観はパノラマカー7000系にそっくりだが、低重心化したために2階の運転室がやや飛び出している。また、制御装置が在来車と異なるため名鉄では珍しく他系列との運用はなかった。低重心のため床面が在来車より低く、バリアフリー化のホーム嵩上げを行う際に指針から外れてしまい、機器が1030系当に転用され、廃車になった。 ’03.10 名古屋本線 金山 P:深山剛志戦後間もなく小田急に割り当てられた国鉄63形がルーツで、小田急では1800形となった車輌である。50年代末の大幅な更新工事により近代的な外観になった他、台車も枕バネを板バネからコイルバネに交換するなどの改造を受けた。1979年に秩父鉄道に譲渡され、秩父では1000位の数字を取って800形とした。2輌編成10本が活躍したが、国鉄でも63形を置き換えた101系の導入により廃車。秩父での活躍はほぼ10年と短かった。 '81.11.14 秩父 P:小西和之1956年東洋工機車体新製、足回り等は再利用品。今迄にない欧風の車体、両開きドア、かわいいセミクロスシートなどのほかテープによる沿線観光案内も行われ、まさに観光地の電車でした。後Zパン、パンタグラフ化、車体更新し片開きドア、正面5枚窓化、'89に台車の交換が行われた。20形に機器を譲り2002年惜しまれながら廃車となった。 '61.5.3 鎌倉高校前ー峰ヶ原(信) P:高澤 一昭名古屋鉄道が1937(昭和12)年に製造した特急用電車。当時流行していた流線型となっており、下回りはスカートで覆われて「いもむし」の愛称で親しまれた。性能は「いもむし」どころか、最大112.5kWの主電動機を搭載、最高速度は110㎞/hを誇った。1950(昭和25)年に中間電動車を増備し3輌固定編成に、1953(昭和28)年に中間付随車を増備し4輌固定編成となった。1988年(昭和63)年、事実上引退。保存車となってからはモ3400+ク2700の登場時と同じ2輌編成となり、'93年より塗色も登場時のカラーリングとなって2002年まで休日の臨時列車などに活躍した。 ’01.9.8 名古屋鉄道 広見線 明智─顔戸 P:田中一弘焼損したモ2204の復旧車として1460系に準じた車体が載せられ1964年に登場した。車体の異なる2250系と混結され名古屋線急行等で活躍した。写真では抵抗器などの床下機器が隠れてしまっているのが残念である。1983年にモワ601に改番され鮮魚列車に用いられた。1989年後継の1481系に道を譲り廃車された。 '77.8 近鉄山田線 松阪-東松阪 P:楢井勝行昭和6年100形の増備車として5 輌が作られたが、105号車のみ他車と形態が異なり全長は他車より若干短く、ドアは一枚引き戸で客室側に戸袋があった。またステップも他車とは異なり車体の外側にあったが、その後ステップは他車と同様に付け替えられた。ホームの嵩上げに伴い撤去され元の形態になった。昭和45年東急から600形が入線し、その後藤沢駅高架に伴い同車の出力増強のため、モーターを譲り休車になり昭和54年頃廃車された。 '48.5.5 江ノ島電鉄極楽寺車庫 P:田中健吉水間鉄道モハ11は複雑な経歴をもつ電車。もとは南海電鉄の「タマゴ」と呼ばれる前面半円形の木造車(明治42年製)を昭和24年に譲り受け、モハ111として使っていたが、車体の老朽化が進んだため、昭和31年、阪急63形67の木造車体を譲り受けて載せ替え、モハ11に改番したもの。写真は車体載せ替えから10年も経っていないが水間駅の側線で休車になっていたころで、塗装は阪急時代のマルーンより薄めの赤茶色がさらに色褪せてかなり薄くなっていた。オリジナルの台車はBrill 27 GE 1のはずだが、写真では外吊りモーターは変わらないもののBrill 27 E1と同様の構造のものとなっている。写真ではわからないが車輪はすべて松葉スポークだったので、明治42年のものがずっと使われていたのだろう。 '65.12.25 水間 P:小西和之阪神電鉄青胴車のグループで、5201形の後を受け昭和36年から24輌が増備された。主な変更点は昇圧対応を本格的に盛り込んだり駆動方式が平行カルダンになった。その後、1980年代に冷房化が問題になり、台車等を2代目5001形に譲り1983年までに廃車になった。残った車体は2扉化されて、えちぜん鉄道や高松琴平電鉄に譲渡された。 ’80.1 阪神本線 今津 P:深山剛志1985年7月より運転を開始した"リゾート21"の2次車としてR-2編成が1986年7月に新製された。1次車同様一部機器と電動機を廃車となった100系から流用している。後に増備された3次車〜5次車とともに伊豆急行の看板列車として活躍した。塩害による車体の老朽化によりステンレス車体の8000系(元東急電鉄)に置き換え、2006年3月に1次車が引退、2009年5月に2次車R-2編成も引退した。尚、当初は1次車R-1編成〜4次車R-4編成がこの写真の海側赤色/山側青色の塗装であった。しかしR-1編成は一代目"黒船電車"、R-3編成は"リゾートドルフィン号"(2017年2月4日よりキンメダイをイメージした地域プロモーション電車)、R-4編成は二代目"黒船電車"と塗装変更されている。これに対しR-2編成は新製時から引退時まで終始オリジナル塗装を貫いたことが特筆される。'08.3.29 東海道本線 熱海 P:楢井勝行現在も同形車が活躍するモ161形のうち173号(初代/1930年製)を制御器の交換により改番したもの。戦災復旧車であったが2000年まで70年にわたって活躍した。  '87.7 上町線住吉 P:田中一弘東京メトロ01系は1983年に銀座線に導入され、1984年1月から営業運転を開始した。当時銀座線は戦前から使用している古い車両が多く、従来の銀座線からイメージを大きく変えるデザインを採用し、イメージアップを図った。車内案内表示器の設置や高周波分巻チョッパ制御の採用など当時画期的な技術を搭載し、1985年に鉄道友の会からローレル賞を受賞した。1997年までに計38編成が導入され、長らく銀座線の主力車両として活躍してきたが、2012年に後継の新型車輌1000系が導入され、2013年に第31編成が最初の廃車となった。その後も1000系による置き換えが進み、第30編成が2017年3月12日のラストランイベントを最後に引退し、01系は全車引退した。銀座線から引退後、第35編成と第36編成は熊本電鉄に譲渡され、第1編成のうち3輌が中野車両基地に保存、また第29編成のカットモデルが地下鉄博物館に保存されている。 '17.3.12 東京メトロ 中野車両基地 P:福田智志1966(昭和41)年車体更新HL車2輌10本が登場。いわゆる間接非自動制御車で主に旧愛電3300形等の戦前の半鋼製車の機器流用車。車体は5500系を高運化したパノラミックウインドウ、シールドビーム2灯、側窓2連1組二段窓、車内1・2人掛交互配置の転換クロス、その上クーラ搭載とHL更新車としては豪華な内容。当初、新色ライトパープルと称する薄いすみれ色で登場、他車にも波及し掛けたが、体色が激しく、郊外で保護色になって視認性に問題があって暫してストロークリーム+赤帯の後スカーレット化。'77年以降瀬戸線1,500V地下線用としてA-A基準化。同時に転出した3770系等共に活躍。なお、特徴ある車内は'85年までにロング化。HL、吊掛け駆動の機器老朽化等により本線転用6000系等と順次交替、'96年6月までに全車引退、形式消滅。 '88.8.25 瀬戸線 尾張瀬戸─瀬戸市役所 P:梶村昭仁1954(昭和29)年、この電車の登場時のことが今でも鮮烈な記憶として残っている。最初の編成が営業に就いた時は、渋谷~新丸子間の区間運転に用い、パンタグラフがあるのにモーターの「音がしない」(その当時の電車はすべて吊掛式)ので引率の父に、当時幼稚園児の私は「この電車はパンタグラフがあるのにクハなの?」と質問したところ、この電車は最新式のモーターをつけていて、父の会社(東芝)で造った! と自慢げに教えてもらった。数編成が増備されると、急行運転が復活した。当時の急行は、車内放送に当時珍しかったテープレコーダーによる女性アナウンスをするという力の入れようだった。この電車の設計最高速度は135㎞/hだそうだが、当時の東横線では急行でも80㎞/h程度のダイヤだったので、弱め界磁をカットしても急行運転に支障がなかった。写真は5000系が東横線の6連急行に活躍する、最も華やかな姿である。当時、初期の車輌は、ユニット窓やドアー窓の小型化が始められた時で、未改造で揃った急行は珍しかった。現在なお熊本電鉄に数輌が活躍。トップナンバーの5001は最近渋谷のハチ公前広場に登場したが、近年まで折角復元保管してあった歴史的車輌だけに、嘆かわしい限りである。  '71.3 東横線 代官山 P:永野晴樹釣り掛けの260形を置き換えるために1979(昭和54)年に登場した500形だが、当時は大津線にも冷房化の要望は高まっており、非冷房であるために700形に車体を譲り、早々と形式消滅した。 ’80.8 京阪三条付近 P:深山剛志カハ5を電化に際して制御電車に改造したもの。カハ5は下津井鉄道初のボギー気動車で、昭和6年製。製造当初はボディ前後の「鮮魚台」が取り付けられていなかった。改造に際し茶屋町側の運転台は撤去されている。廃車後、長い間下津井駅構内に放置されていたが、現在は化粧直しされ木造有蓋貨車ホワ6とともに保存されている。'80.3.15 下津井 P:山下修司300形(三菱製)は、1970年(昭和45)3月のモノレール開業時から使用された。2編成は後、中間車を新製し3輌編成なった。空中散歩のとき高速で、カーブに入ると、体が持ってゆかれ、独特の味わいがあった。500形導入により、1992(平成4)年7月までに廃車された。 湘南深沢 '72.1212 P:髙澤一昭5000系の附属編成として誕生し、当初は台車、電装品を2700系から流用した2輌編成で5070系を名乗っていた。5113Fからは完全に新車となり、1968年の9次車、5119Fからは冷房装備の3輌編成で登場し、5000系と7連の特急を組んだ。追ってカルダン車の5113F以降の編成にも中間M車が増備されて3連になった。5000系共々この9次車は冷房車の試作的要素が強く、分散クーラーを8基(パンタ車は7基)搭載した姿は壮観だった。1985年に廃車。'68.4.28 高幡不動検車区 P:青柳 明1961(昭和36)年、戦前のロマンスカー600形(初代)、700形(初代)などの機器を利用して車体を新造した車輌。1983(昭和58)年、1500V昇圧時に廃車となった。写真は京阪電鉄600V時代の末期に運転されていた吊り掛け車600系による急行。複々線を豪快に飛ばした。 ’82.11 京阪電鉄本線 千林─森小路 P:松本テツヤ日本初の5扉電車でおなじみの京阪5000系第7編成は1980年に製造された。平日ラッシュは5扉、日中は3扉に変身して使われない扉は座席となって使用。同編成は2008年に5000系としては初めて新塗装化、7輌編成のため主に普通や準急として運用された。ところが京阪でもホームドアの導入が発表され、同編成は5000最終編成でありながら2017年6月30日付で5000系の編成単位としては最初に廃車となった。他の5000系6編成も2020年のホームドア使用開始前にすべて廃車の予定である。 '09.1.11 京阪電鉄京阪本線 伏見稲荷 P:中村和幸元をただせば1926(昭和2)年に製造された旧帝都電鉄の200形で京王帝都電鉄の1400形となり井の頭線で使用された。1975(昭和50)年に西武所沢工場を経由し伊予鉄道に譲渡された。130形は4輌譲渡され、中間に同じく元京王の1800形2輌がサハ化されサハ510となりオール京王の3連2本が使用された。今でこそ、京王は全国に車輌を譲渡しているが、’82年当時は伊予鉄道の13形のみ。写真の133は後に台車変更しカルダン化され’90年頃引退した。 ’82.8 松山市 P:深山剛志1941年に17輌製造された九州鉄道100形、車長15.6mの2扉車である。数回の改造・他系列からの組込みと一部の宮地岳線への転出により、1968年以降は Mc+M+Tc 5本が西鉄大牟田線系統で運用された。これらは1975年から1984年に廃車された。写真は夕刻の大宰府駅に停車するモ110+モ112+ク155。貝塚線開業90周年記念として2014年5月23日~2015年1月24日に旧塗装で運行されその後廃車される予定の313形、その大先輩を修学旅行で大宰府天満宮を訪れた際に撮影していた。尚、手ブレと劣化したネガから修復・補正したため不鮮明な写りはご容赦願いたい。 '81.11.13 西日本鉄道 太宰府 P:楢井勝行西鉄北九州市内線用の1001系接続車。昭和28年から増備され合計64輌が製造された。メーカーは川崎、近畿、帝国、日立、日車、九州車両と多岐にわたる。この1001はそのトップナンバー。 ’71.3.1 黒崎 P:松崎昌一阪神電鉄の急行用高性能車輌で、両運転台が3301形、方運転台が3501形。3501形は1958(昭和33)年~1959(昭和34)年にかけて、汽車会社、川崎車輌、日本車輌で20輌が製造された。1965(昭和40)年に昇圧改造が行なわれ、その際に奇数車、偶数車をユニットとし、偶数車のパンタグラフを撤去、制御装置は奇数車に、コンプレッサーは偶数車に取り付けられている。そのため単独走行はできなくなった。本線の特急・急行や西大阪線で活躍したが、1988年までに全車廃車。 ’81.8 武庫川付近 P:深山剛志東急の荷物電車。1969(昭和44)年、デハ3204から改造された。中央扉の拡幅のほか、車体をリベットレス化、シル・ヘッダーを平面の帯材に交換するなどの改造がなされている。濃いグリーンの荷電専用色から、一般車と同じライトグリーンに識別用の黄色帯という塗装に変わった直後に撮影。1981(昭和56)年、廃車となった。 ’79.8.12 田園都市線 二子玉川園 P:松尾彦孝京成電鉄のクハ126形として1928(昭和3)年に雨宮製作所で作られた3扉の16m車だが、ほどなく電装されている。これは新京成に移籍してまもない頃で、前面5枚窓のクラシカルな風貌だったが、このあとすぐに大栄車輛で鋼体化改造を受けて印象が様変わりした。本来の台車は雨宮A-1だが、すでにD16に変わっている。他形式とも編成を組んで長らく活躍したが、1985年2月に廃車になった。 '63.03.26 新京成電鉄 藤崎台 P:内藤健作近江鉄道モハ1系は神姫電気鉄道の木造電車を譲受し1963年に鋼体化のため湘南顔の2扉車体に生まれ変わった。この時期西武系の会社は必ず、湘南顔にベージュとローズピンク塗装をされた車輌が必ず在籍していた。末期は黄色に塗装されて活躍し2004年頃に引退した。 ’82.2 彦根 P:深山剛志元西武551系と1651形のMc+Tc2輌。クモハ1210(元クモハ561)クハ81(元クハ1658)で西武式湘南形ともいうべきスタイル。種車の違い(551系は'61年、1651形は'62年製造)で、前車は運転台ワイパの支点が上部に後車は下部配置の違いがあった。20m両開3扉車と地方向けスタイルのため他私鉄でも重宝がられた。'84年から活躍するも吊掛け、非冷房のため、同じ西武の後輩701系と交替し'97年2月に廃車、愛称名を後輩に譲って消滅した。 '88.11.3 小金城跡-幸谷 P:梶村昭仁'63~'68年に300番代形式である旧国17m車の代替目的で製造した旧411形(クモハ411形・クハ1451形)を種車に'78年から改造、と云うより新製同様で冷改の際、台車新製(FS372=101系)、主電動機(120kw=701系)等を使用。性能は701系に合わせたためHSC化されるも電制はない。車体は種車が流用されるも窓上行先字幕新設、SUS飾り板等他車並みに。19編成38輌が新宿線系統で活躍。'97年2月までに引退。なお、全車が他社へ譲渡された。 '88.9.2 多摩湖線 一橋学園─青梅街道 P:梶村昭仁銚子電鉄デハ1000形は、元営団地下鉄2000形を改造した車輌で1996年に2輌導入された。デハ1001は元2046、デハ1002は元2040で、両運転台化改造、パンタグラフの取り付け改造を行なった。導入当時は従来車と同じ銚子電鉄オリジナル塗装で運転していた。2007年 に2両とも塗装が変更され、デハ1001は2012年5月までゲーム「桃太郎電鉄」20周年記念ラッピング電車として運転、一方デハ1002は 2011年9月までマンガ「鉄子の旅」の原作者考案の特別塗装として運転されていた。その後デハ1002は2011年11月から丸ノ内線カラー、 デハ1001は2012年8月から銀座線カラーとなり、懐かしい営団地下鉄時代のカラーが久しぶりに復活した。2010年に導入された2000形 とともに活躍を続けていたが、老朽化には勝てず、2015年1月にデハ1002が引退、2016年2月にデハ1001が引退し、元営団地下鉄2000形は全車営業運転から引退した。 '16.2.27 仲ノ町車庫 P:福田智志ロマンスカーの代表格になった小田急3100形は初代SE車3000形のあと、昭和昭和38年に登場し、7編成が生産されました、翌年ブルーリボン賞を受賞し前面展望席、11連接の車体で人気を集め、小田急の顔として1999年まで使用されました。停車駅では乗降の際には添乗員が付き添いドアの開閉を行っていました。 ’79.7 柿生 P:深山剛志上田温泉電軌(→上田電鉄→上田丸子電鉄→上田交通)が1928(昭和3)年新造した15m級3扉車で日本車輌製。デナ200形(201〜203)。1950(昭和25)年の改番で5250形となった。生涯通して別所線で使用され、楕円形の戸袋窓が改造されず最後まで残っていたことから、"丸窓電車"として親しまれた。廃車は1986(昭和56)年、それまでの700Vから1500Vに昇圧されたことによるもので、5253は長い間下之郷に放置されたままだったが、2005(平成17)年、長野計器丸子工場前に移転、整備された。 1984.9.23 上田交通 別所線 別所温泉 P:山下修司京伊特急増発のため1969年3月~1972年9月に McTc K01~K10の計10編成20輌が製造された。スナックカー12200系に準じた車体・車内設備を持つが車幅は2,590mmしかない。ク18500連結面は低屋根でパンダグラフ1基を装備する。1984年10月~1987年12月、K01~K08は更新改造された。しかしK09とK10は更新されず、1996年3月にK10は廃車、1997年にK09は団体専用車あおぞらⅡPK09に改造された。1999年8月~2000年8月にK01~K08が廃車となり2008年8月20日に12000系と共にさよなら運転を行った。時は流れ老朽化した団体専用車あおぞらⅡPK09も引退することとなり2013年9月特急色に復元、イベント列車に充当された。そして2013年11月30日、同系2度目のさよなら運転を行った。 '77.7 近鉄山田線 松阪 P:楢井勝行’56〜’61年にかけて製造されたモノコックボディを持つ阪急の高性能電車。神戸線用が1010系、宝塚線用がこの1100系で、総数は51輌。阪急では’89年までに姿を消したが、能勢電に譲渡されたもののうち、8輌が’01年まで活躍した。晩年は冷房化改造されている。’77.3.19 中津 P:山下修司名古屋鉄道の3400系は昭和12年製造、2編成が登場し、戦後4連化され。、パノラマカーの登場後も高速性能を発揮した。昭和42年頃から更新改造により、イメージが大幅に変わってしまった。写真は昭和37年3月、大阪への旅中、特急「ひびき」号(157系)の車窓からたまたま並走した時の改造前のスナップである。 '62.3 栄生付近 P:永野晴樹1967年に日立製作所で製造されたアルミニウム車体の試作車輌で6000系唯一の異端児。屋根上は他車輛と異なりグローブ形ベンチレータが並ぶ。廃車後は、同社のかしわ台車両センターにモハ6001と共に保存されている。 '79.6.16 相模鉄道 西横浜-平沼橋 P:中静政信1963(昭和38)年登場。西武所沢工場で車体新製。機器は自社手持ち部品を活用。西武551・601系をベースに伊豆箱根オリジナルスタイル(腰部2灯前照灯、張上屋根車体等)とした。性能は吊掛駆動、台車はDT10,TR11等の旧式。屋根上はMc車パンタグラフ以外、グロベンがズラリ並ぶ。車内はセミクロスシート。この第1編成のみ両端Mc車編成。車体は西武カラーでウオームベージュ+ローズレッドで後、前面部が旧国鉄特急車の様なデザインに。非冷房故旧西武701系譲受車や新車投入で余剰となり'91年除籍、Mc(2輌)のみ大井川鉄道へ譲渡。 ’89.3.2 駿豆線 三島二日町─大場 P:梶村昭仁2600形と同じ20mの大型車体に、HB車、AFB車といった旧型車のモーターを流用して新造した形式で、1966年に登場した。当初はMc+M+Tcの3連で、台車もパイオニアを履いていた。1974年からは中間にM車を2両組み込んで5連化された編成も登場した。1985年から冷房化・高性能化改造が施されたが、3000形の投入で2005年に全車廃車。写真は1967年11月の小田急デパート完成記念塗装が4001Fに施されたときのもの。 '67.11.29 成城学園前 P:青柳 明昭和8年、日本車輌製。 “モニ”ではなく“モワ”として、開業当初より貨物用。燕駅から国鉄からの貨車を牽引して活躍した。貨物列車廃止後はキ100を連結して冬季、除雪に出動。平成11年の鉄道線廃止後、月潟駅に保存された。 ’78.8 東関屋 P:深山剛志'63~'67年に4輌編成48本192輌が製造。前灯2灯を窓下、字幕を額に掲げ、斬新性を強調するも、カルダン駆動車ながら制御車はイコライザー式TR10A、在来(吊掛)車併結可能のAE式ブレーキ方式等、高性能とは御世辞にも云えなかった。'75年以降冷改、HSCブレーキ方式、制御車エアサス(FS072)台車、SUS扉、レモンイイエロー一色(登場時ローズピンクとウオームベージュ)化。新宿線系で活躍も老朽化等により、'97年2月のさよなら運転を最後に形式消滅。 '88.8.13 拝島線 萩山 P:梶村昭仁それまで走っていた旧性能特急車達を置き換ため、1963~64年に製造された乙特急用増備車。先の10400系と同様、基本2輌編成にTc車を組み合わせて乗客数の増減に対応できる。当初は10100系同様の星型特急マークを掲げていたが、増解結の際の手間のため、後に小型のものに変更された。また1980年からは3輌固定、座席のリクライニング化、字幕式行先表示化等12400系に準じた設備に更新され、短距離特急から名阪特急まで幅広く活躍した。1996年廃車。 '78.3 大阪線 関屋-ニ上 P:岩井雄二豊橋方 7019-7070-7751-7752-7069-7020 岐阜方 から成るパノラマカー6連である。1967年3月3次車として 7019-7070-7069-7020 4連で新製、1968年10月1次車から中間車 7159-7060 を組込み6連となる。1970年4月6次車に中間車 7159-7060 を譲り4連に戻る。1973年1月連結化工事、1977年2月M式自動連結器を取付、1990年8月7701Fから中間車 7751-7752 を組込み再度6連となる。2008年5月「名古屋本線東西直通60周年記念号 」に充当され注目を集めるも2008年6月末で運用を失い、逆さ富士の行先種別表示器が撤去された痛々しい姿で布袋駅側線に留置されていた。その後2008年9月に廃車となった。尚、現在では布袋駅も高架化工事のためすっかり様相が変化している。  '08.7.27 名古屋鉄道 犬山線 布袋 P:楢井勝行名鉄が軌道線車輌工場を各務原線沿いの市ノ坪に移転したことにともない、美濃町線から出入庫線(田神線となった)を経由して新岐阜に直通することができるようになり、この乗り入れのために1970年に6輌製造された複電圧車。台車は旧車から流用したイコライザ式のものだが、新造の狭幅車体には2 + 1列の転換クロスシートを装備していた。各務原線乗り入れ距離はわずかなため、1500V区間では抵抗を直列に挿入して600Vに落とすという単純な制御方式を採用したのが大きな特徴だったが、このための大容量抵抗は屋根上に搭載するしかなかったことから冷房化できず、2000年にモ800型が投入されたことにより予備車の606を除き廃車、その606も2005年の600V線全廃時に廃車された。601は旧美濃駅で保存されている。 '92.6.19 新岐阜 P:小西和之1953年に登場した2250系特急車サ3026より先頭車改造された。1963年頃格下げ改造され、名古屋線山田線ローカル列車で活躍した。中間車からの改造車だったため運転台貫通扉は引き戸であった。この後スカートも取り付けられたが1982年に廃車された。 '78.2 近畿日本鉄道山田線 東松阪-櫛田 P:楢井勝行1964年~1973年に製造された阪急京都本線用元特急車(McTMTc+McTMTc 7本)である。新製当初は2扉セミクロスシート(車端部ロングシート・扉間転換クロスシート)で京阪1900系と競い、京阪3000系登場により1971年からは冷房取付改造が行われた。後継となる6300系の配備により1976年~1979年格下げ改造(3扉化・オールロングシート化)を受けた。写真は2815を先頭に8連で急行に活躍する姿である。後にT車を抜いて7連化、余剰となったT車は神戸線宝塚線他系列に組み込まれた。なお、京都線2305FにはM車2輌T車1輌が組み込まれた。1988年より廃車が始まり1995年には編成としての2800系は消滅した。他系列に組み込まれていた中間車も2001年には全て廃車となり2800系は系列消滅となった。 '78.3 阪急京都本線 大山崎-長岡天神 P:楢井勝行三條から急行できて、旧・浜大津駅でスイッチバックして石山寺に向かうブリルを履いた262+263。260形は1957(昭和32)年から1968(昭和43)年にかけて26輌が製造された。1次車から4次車の4タイプに分かれ、写真の1次車は’57年のナニワ工機製で、両運転台、片開2扉。’70年にパンタ化され、’71~’73年にかけて片運転台化された。’97年の大津線昇圧の際にこの1次車はすべて廃車されている。 ’63.4 浜大津 P:柿浦和敏東武初の高性能車、日比谷線相直対応車輌として登場。当初は4輌編成であったが晩年は中間車増備が行われ、最大8輌編成で活躍。90年代初頭に新形式(20000系)にバトンを渡したが、同線で活躍した相直各社の車輌で唯一、他社への譲渡も無く消滅した。 ’88.4.30 営団日比谷線 南千住 P:梶村昭仁1923(大正13)年京阪線で初の連結運転用に製造されたシングルルーフの木造電車。この時代、南海ではすでに4~5連の長大編成を走らせていて、京阪が関西の大手私鉄では最も遅い連結運転の開始であった。当初は二本ポール付きで1000形と称したが昭和4年の改番で、300形となった。昭和30年代後期には京都三条~宇治間の普通電車などに活躍していたが、1963(昭和38)年に4輌が石坂線に転属、ポール付きの姿となった。電気ブレーキがないのと木造車のため京津線では用いられなかった。後に310形に改番されて昭和42年まで活躍。京阪最後の木造車であった。 ’66.7 石坂線錦織車庫 P:永野晴樹現存する7700系では7901Fと並び数少ないSRアンテナの配管が露出していた編成だった2015年6月15日に恩田へ廃車回送され東急の線路上から去った。 '15.2.12 東急電鉄池上線 雪谷大塚-石川台 P:田中翔貴もと木造の簡易鋼体化17m車モハ1301形+戦後の標準型15m車クハ1831形+戦前の標準型18m車モハ1201形×2と言う珍編成。南海電車は難解であると言われる最たる編成。先頭の簡易鋼体車はもと電4形と呼ばれた正面5枚窓の卵型木造車を戦前簡易鋼体化したものだが、同じ形態でもウェスチングハウス100馬力の電車は1031形、ジェネラルエレクトリック105馬力は1061形、そして後部のモハ1201形と同じ国産の100馬力モーターを装備しブリル27MCB 台車を履いていたがモハ1301形と称した。車長や形態は全く異なるが、制御回路を含めて性能は同一なのでこのような編成が高野線の三日市町までの近郊区間では日常的に用いられた。列車ごとに色々な編成が走るので、整列乗車などはとても考えられず、南海の乗客はマナーが悪いといわれても当然であった。2輌目の15m車も変遷は極めて複雑で、高野山直通用の回生制動の回路を装備したものはクハ1871 形などとなり、モハ1201型を除き昭和42年頃から昭和46年ごろまでに廃車となった。 ’65.8 南海高野線 萩原天神~北野田 P:永野晴樹飯田線本長篠駅から分かれていた田口線の開業に用意された昭和4年日本車両製の車輌で、当初はモハ101・102と称していた。形態的は豊川鉄道の増備車モハ30形と同型で、その後田口鉄道のモハ101・102は豊川鉄道の続番としてモ36・37に改番された。ただ田口鉄道の車両同士を連結した際、非常時に行き来ができるように、分からない程度ではあるが、貫通扉が設けてあった。昭和43年田口線廃止後は渥美線へ転じ、同線のモ1711・1712となった、両運転台を生かし、増結用に重宝されたが、1712は昭和62年に、1711は昭和63年のお別れ運転最後に現役を引退、暫くは高師駅構内に留置されていたが、平成4年正式に廃車された。 '85年頃 豊橋鉄道高師駅構内 P:田中健吉1959(昭和34)~1962(昭和37)年にかけて木造車置換えのために登場した南海が設計・した製作初の20m4扉車。2051系も1521系と同様の目的で登場した。主に南海線の普通列車に使用されたが、'73年、南海線の1500V昇圧が行なわれたさいに、1500V対応に改造したが、結局、高師浜線、天王寺支線などの支線で運用されることになった。高野線汐見橋-岸里玉出で最後に運用されていたが、'95年に運転終了、和歌山港線でお別れ運転が行なわれた。 '84.11.11 天王寺支線 天下茶屋 P:小森克禎浜松駅至近の新浜松~西鹿島間約18km余の中小民鉄。全線単線12分ヘッドのフリークエンシーサービスを実施し利用者から「あかでん」の愛称で親まれる。この30系(モハ30形クハ80形)車両が1958年から新製・機器流用含め1980年まで製造。写真は1962年新製で当初はミュージックホーンを搭載(後撤去)。吊掛駆動ロングシートとはいえ2輌で1輌に見える広幅全周ホロ等、この時期の中小民鉄の中では豪華車輌であった。この編成1989年まで活躍。冷改されず新車と代替消滅した。 ’85.8.14 西鹿島線 旧遠鉄浜松~旧遠州浜松(信) P:梶村昭仁'64年に4輌が東急車輛で製造。14m級3扉の路面用車輌としては大型車。耐候性高抗張力鋼を使用、窓下側板にSUS車並みのコルゲーションを持ち、当時の鉄道線の思想を採用した意欲作。前面2枚窓に腰部前照と標識灯を組込んだケーシング2灯式、額部に字幕と標識灯、屋根上FRP通風口と当時の7000系類似に。側窓1段下降式。両運車だったが、「連結2人乗」改造後、連結部は使用されず、後の更新で撤去、客室化。性能は吊掛式HL制御(TDK540 60kW)、SME制動と平凡だった。登場時グリーン濃淡ツートンだったが、'69年以降現色に。'83~'84年に更新工事で上部標識灯撤去、片運化等以外原型を保ち、近代化による新車投入で'01年引退。 '97.6.27 東急世田谷線 松原─山下 P:梶村昭仁埼玉新都市交通1000系は1983年12月の開業と同時に導入されたニューシャトルの初代車輌である。最初は4両編成で登場したがのちに 6輌編成化された。車体カラーは登場当時赤と白のツートンカラーだったが2000年にリニューアルした際に黄色と緑のツートンカラーに変更され た。6輌編成9本が導入されたが、2007年から2000系及び2020系の導入により廃車が進み、2016年6月26日に1017編成が引退し たことにより全車引退した。 '16.6.25 東宮原 P:福田智志1924年(大正13年)10月、浅草~西新井間の電化時に日本車輌で製造されたデハ1形5号が前身です。営業運転引退後、長らく旧西新井工場で入換用として原型に近い状態で使用されました。現在は東武博物館で保存展示されています。 '78.9 東武鉄道 西新井工場 P:稲毛信夫1939(昭和14)年大阪電気軌道(大軌)が投入した日本車輌製の制御電動車デボ1400形(1400〜1415)、制御車クボ1500形(1500〜1504)は、大軌の系列会社である参宮急行の高性能急行用電車2200形(新)と共通設計の、20m3扉の半鋼製ロングシート通勤車である。1944(昭和19)年、近畿日本鉄道となってからはモ1400形・ク1500形と形式名が変更された。1960年代になり片運転台に改造、そのさいに前照灯2灯化が行われている。1976(昭和51)年までに全車引退。モ1400形・ク1500形合わせて11輌が荷物用電動貨車に改造されたが1983(昭和58)年までに廃車となっている。 '71〜72頃 近畿日本鉄道 上本町 P:瀬戸正教京急最後の片開き扉と一灯式前照灯が特徴の800形。811編成は1979年11月に 品川方 811-1 811-2 811-3 浦賀方 の3輌編成で製造された。1986年8月に中間車 811-3(二代目) 811-4 811-5 を増備、浦賀方先頭車 811-3 を 811-6 に改番し6輌編成となった。新1000形の増備により2014年8月運用より退いた。 '09.5.13 京浜急行 本線 京急川崎 P:楢井勝行現在『国鉄時代』はvol.1、vol.9〜21、vol.23〜25が品切れとなりました。他の巻も早めのご購入をお勧めいたします。電話でのご注文はブックサービス(株)0120-29-9625(フリーダイヤル)まで。昔は大手私鉄でも荷物電車が活躍していた。東急東横線にも荷物電車が走っており、先日廃止された渋谷地上駅の桜木町寄りに、荷物電車専用の短いホームと引き込み線があった。戦後、木造荷電モニ13012を改造。1964(昭和39)年、デワ1366の車体を譲り受け鋼体化、両運転台への改装、中扉の拡張などの改造が加えられた。デワ3043の登場により廃車となった。 '78.5.10 東急東横線 代官山 P: 住吉 誠豊橋方 7011-7162-7061-7012 岐阜方 からなる最後まで生き残った7000系パノラマカーである。1962年6月6連で登場、1984年8月中間車2輌が廃車され4連となる。1987年2月特急専用車として整備され白帯が巻かれた。1999年一般車に格下げ、白帯が無くなった。2008年7月、写真の7011Fに乗車し前面展望やベージュ/茶色ツートンの転換クロスシートと戸袋部のソファーのようなロングシートを楽しんだ。後に2008年10月、7011Fは再度白帯が巻かれる。2008年末に7000系の定期運行が終了、しかし7011Fのみ2009年8月末までイベント列車として運行され花道を飾った。 '08.7.27  名古屋鉄道 名古屋本線 須ヶ口 P:楢井勝行1960(昭和35)年5000系に代わる通勤型電車として製造された。5200系のセミステンレス構造を基本とし、電力回生ブレーキを装備。1台車1モーターという珍しい構造。東横線で運用されたが、その後は田園都市線に配置。晩年は大井町線で活躍した。1990(平成2)年までに、東急からは引退。弘南電鉄に譲渡されたものは大鰐線で運用されたが、2006(平成18)年10月31日の快速列車廃止のあおりで運用離脱してしまった。 ’72.1 田園都市線 長津田-つくし野 P:永野晴樹1997年10月しなの鉄道開業に伴い移籍した169系3本。S53編成は1968年9月製造、長野方 クハ169-20 モハ168-23 クモハ169-23 から成る。のちに入線したS54編成共々赤と銀のしなの鉄道色を纏い続けた。よってイベント列車へは2011年7月31日運転の169系12連快速や2013年4月のさよなら運転に充当された程度であった。2013年3月定期運用から離脱、S51編成が湘南色に復元され坂城駅で保存、S52編成クモハ169-6が軽井沢駅に保存、それに対しS53編成は2013年7月中旬長野総合車両センターに送られ廃車となった。 '10.12.17 しなの鉄道  戸倉-千曲 P:楢井勝行昭和31年、トンネル内での火災事故により焼失したモハ1251系3連の代車として、本線の急行用高性能車11001系並のセミクロスシート車が高性能車ズームカーに先駆けて昭和32年に登場した。下回りは1251系と同じ回生制動を装備した吊り掛け式で、弱め界磁率52%の高速性能であるが台車も旧型のいわばニセズームカーとも言うべき存在である。昭和42年に帝国車輌で空気ばね台車に改造、昇圧により使用中止となった。先頭の21201だけはクハに改造の上、貴志川線に転属して、モハ1201形と連結して活躍したが、貴志川線の旅客減少のため3連運転を中止したため、廃車となった。 ’65.4 高野線 北野田 P:永野晴樹東武が戦後の混乱期に受け入れた国鉄の63系をモデルに、昭和27(1952)年から製造した車輌が7800系である。逐次改良されつつ昭和36(1961)年までに164輌が作られた。モハ7806は昭和28(1953)年、ナニワ工機製。この頃はオレンジとベージュの旧塗装から、クリーム一色の新塗装に塗り替えが進んでいる時期だった。列車は準急・東武宇都宮行き。 '75.9.14 東武伊勢崎線 鐘ヶ淵~堀切 P:宮村昭男5000系は1963年の京王線昇圧に備えて新造された1500V専用車で、1970まで製造された。18m3扉車で、Tc-M-M-Tcの4連だが、付属の5100系と6〜7連を組んで特急として活躍した。製造年次による形態差が大きく、1972年製の7次車、16・17Fからは車体帯のひげ無し、ATS装備で落成。その中の17Fだけはスカート付きでデビューした。17Fは1995年に廃車、先頭車のみ電装化の上、一畑電鉄に譲渡。5000系自体も1996年には全廃された。 ’67.9.24.